2025年03月24日

【薙刀式】小説を書いてる時に読者になれるか

脚本の話からやや遠ざかるので薙刀式カテゴリで。


ラクダエンさん:
https://note.com/catfist/n/nc26654c8308a?sub_rt=share_pb

> で、本来脚本家であるところの大岡さんに伺いたいんですけども。
小説書いてるときにも「読者になれる」んですか???
おれの予想だと「なれない」んですけど。


自分が書いてるものが小説なのか、
読者と観客が違うのかが、実のところわかってないので、
答え方が難しい。

シチュエーションがあって、
登場人物があって、
地の文とセリフがあって、
という小説形式ではあるけど、
結局「その形式による脚本を書いてる」のではないか、
と自分で疑っている。

それも小説である、と考えるか、
そんなものは小説ではない、と考えるかで、
変わってくると思われる。

乱暴に言うと、
小説という名の脚本の別形態のものを書いてる時は、
読者かどうかわからんが、観客にもなりながら書いてます。

それで小説を書けたといえるのかはわからないけど、
始まりから終わりまでは、書けるは書ける。


ただ、
僕の中に、「小説とは」という経験が乏しい
(映画なら数万本くらいは見てるけど、
小説は500冊読んでないと思う)ため、
評価の軸が自分の中で出来ていないのよね。

だから、
「脚本形式だと普通の人に読み取れないから、
小説の形にすれば読めるのでは?」
レベルのものなんじゃないかなーと思っている。
所詮は脚本の代替品にすぎないものであると。

それは小説の本質と異なるものだよ、
と言われてもしょうがないと思っているので、
「小説の真似事をしております」と自己紹介するべきかなー、
なんてことを思っている。


なので、主観的には「読者になれてる」だけど、
「そりゃあ実質なれてないですな」
という可能性が高そうだなーという実感。

あ、これは手書き執筆に限る。

タイピングによる執筆だと、
漢字変換の減速ぶん、感覚の蒸発が少々起こるので。
posted by おおおかとしひこ at 12:02| Comment(2) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ついに拝読。確かに小説っぽくないスね。地の文=サンがいない。脚本のト書きが「こうせよ」という指定であるなら、小説の地の文は「こういうことである」という解釈だと思います。なので地の文とは一つの人格であり認知であるというのが僕の意見ですが、その観点でいうと地の文に人格がなく、「言ってることはわかるが何を伝えたいのかわからん」みたいな感じがある。もっというと「お前がどう感じてるのかわからん」だし、さらにいえば「誰もおらん」となる。アドベンチャーゲームのシナリオに仕立て直すのが一番手っ取り早くまとまりそうな気がします。
Posted by ラクダエン at 2025年03月24日 13:57
>ラクダエンさん

なので小説の真似事は何十万字かはやってみたものの、
本気でやるつもりはないなー、
というのが現在地点ですね。
読み方が違うんだろうと。

逆にいうと、小説のように脚本が読まれるのが困るわけです。

ということでご愛読ありがとうございました。大岡先生のご活躍にご期待ください
Posted by おおおかとしひこ at 2025年03月24日 14:31
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