コンプライアンスが徹底されるようになって、
僕はエンターテイメントはつまらなくなったと思う。
人を傷つけない笑いとか言い出して、
つまらなくなったと思う。
なぜなら、
「人を傷つけることは、おもしろい」からだ。
おもしろいことの中心には、
人を傷つけたり、傷つけられることがある。
なぜ映画の中で人は死ぬのか?
なぜ映画の中で人は傷つくのか?
傷つく、傷つけられることが人生の真実であり、
それを架空で楽しむからだ。
主人公が傷つけられるのは、
安全なリスカみたいなものだ。
自分を架空で傷つけて遊ぶのだ。
そして映画の中には、
いくらでも傷つけてください、
という役が一人いる。
悪役である。
悪役は正義ではないので、
いくらでも傷つけてよいのだ。
悪だからだ。
このサンドバッグをみんなズタズタにしてすっきりする、
というのがフィクションなのである。
Twitterの「悪を見つけたらみんなでフルボッコにする」
現象は、
いかに人類が他人を傷つけて楽しみたいか、
ということの視覚化だ。
人類は表面は大人しくしているが、
タガが外れたらデビルマンの最後の暴徒に必ずなるのだ。
つまり、人類は人を傷つけたくてしょうがないし、
毎日誰かに傷つけられてるし、
それで死ななかった人が生きている。
じゃあエンターテイメントはそれでいいじゃんね。
エガちゃんと永野芽郁の問題の厄介なところは、
「これはフィクションです」といえないところだ。
タレントはタレントとしてその場にいることは、
リアルなのかファンタジーなのかはっきりしてないところなんだよね。
エガちゃんはフィクションとして悪役を演じる。
永野芽郁はリアルとして泣いちゃった。
フィクションとリアルが絡み損ねたのだ。
両方フィクションならエガちゃんシネでいいし、
両方バラエティタレントとしてのファンタジーなら、
永野芽郁はバラエティの才能がないでいいし、
両方リアル(コンプライアンス社会)ならエガちゃんやりすぎになるだけのこと。
この噛み合いの度合いのコントロールが、
コンプライアンス社会がやってきたことで、
線引きが難しくなってしまった。
コンプライアンス言うまえは、
「テレビはすべてつくりもの」といえたのに。
永野芽郁はリアルとして出ることはなかったのに。
僕はエンターテイメントはすべてつくりものであるべきだと思う。
永野芽郁はエンターテイメントとして泣いたのなら、
もう少し落ちどころを含めた泣き方にするべきだと、
エンターテイメントとしてNGを出すのではないか。
嘘泣きでちょうどいいはずなのに。
(件のものが見れないので判断できないが)
それは、
エンターテイメントとは、傷つき、傷つけられることを、
架空でたのしむものだから、
と回答できると思うわけさ。
つまり、エンターテイメントを見るほどには、
日本の社会は成熟していない、
単なる未熟社会だと思う。
コンプライアンスが通るのはきれいごとだぞ、
と分かってる見方をしていないからだ。
エンターテイメントの本質の話でした。
コンプライアンスはエンターテイメントの外の話だ。
2025年04月03日
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こちらでくだんの映像は見られるようです。
https://x.com/take09214/status/1906002863224246742
永野さんは「泣いてはいけない」と思って、必死に泣き顔を隠そうとしたそうです。
情報ありがとうございます。
Yahoo!リアルタイムで調べると「永野芽郁」のここ一か月の言及量が6万件、「江頭」が4万件で、ほとんどが3/28以降に集中しています。
全部で10万件として、
これが「炎上」のレベルなのか?が気になりましたね。
たかが10万人の反応が炎上扱いでいいのかね、ということ。
視聴率1%が100万人として、その1/10が全員ネガティブ反応をしたとしても知れてないか?ってことです。
500万件くらいネガティブ反応してもテレビの視聴率からしたらたいしたことないのでは?が気になって、どっちでもええがな、というのが感想ですかねー。
ネットがテレビを凌駕しようとしたときに定めた数字量が、小さすぎるのでは?という感想かなあ。
確かに「炎上」自体の分母が小さいのかもしれませんね。
8割はゲラゲラでスルー、
1割はエガちゃんぬるいぞもっとやれ、
1割はざわつく、
みたいなことだとしても、
分母が小さすぎるのでは、などと思いますね。
一方、車の設計などでは、1件の死亡事故はとても重いです。
クレームの数や比率をそっち合わせにしたら、
1件も苦情のないものにせよ、という品質管理になってしまいます。
それは「たのしい」を売る商売とは異なる基準すぎます。