先日伊藤園俳句を試しに100首くらい打ってみて、
ふと自分も俳句を詠もうと思った。
で、やってみたら、
脳内発声のない僕は5-7-5を守れない。
独り言でぶつぶつ呟き、音にしないと難しいことがわかった。
ついでに、
このフレーズいまいちだなー、
書き換えようと思った時も、
口に出さないと調が確認できない。
字余りとか字足らずも、
脳内発声のない僕の脳内で確認できない。
口で言えば4,6,8くらいの一文字差くらいまでは、
調子を詰められるのに、
脳内文字だと2〜3文字ずれるのは当たり前みたいになる。
へえ、こりゃおもしろいや。
脳内発声のない人は俳句を詠めないのだ。
そういえば昔作詞もちょいとやってたけど、
75調の言葉は口に出さないと難しいとわかった。
逆に体を動かしながら(たとえば歩きながら)言うと、
あっさりと調子に収まる。
何やら口が作詞してるみたいな感覚になったものだ。
それと俳句を詠むのは、
かなり似ている。
いくつか面白いのができたので、
伊藤園俳句に応募したろと思ったら、
1人6句までの制限なのね。厳選しなければ。
そして今期の応募は終わってて、
次は10月ですって。それまでに名句をひねりだしたろ。
逆に考えると、
音に依存しない何か(意味や字面?)で、
僕は考えている。
俳句を何年か鍛えれば、
典型的な5字7字のパターンがわかってくるから、
その時は脳内発声なしでパズルのパーツみたいに扱えるかもしれないが、
それで詠める可能性はなくもないが、
そこまで突き詰めるモチベはないのでとりあえず放置。
僕の初期の頃に、音声から独立した思考が生まれた頃、
口でいうパターンを塊としてとらえて、
音声を介さずにパズルのパーツのように組み合わせる、
みたいなことが起きてたのかしら。
俳句のさらに複雑なことを何十年もかけて、
後天的に獲得したのだろうか。
韻文、つまり音数制限や韻を踏む必要があるものは、
さすがに脳内発声ないとキツイだろうなあ。
僕が詩集を読まないのも、
脳内発声がめんどくさいからかもしれない。
韻文は脳内発声あり、
散文は脳内発声なし、
という風に乖離してるとしたら、
言文一致はかなり難しいな。
言文一致運動とは、脳内発声ありの人たちの運動だったのかもだ。
あ、ちなみに英語は脳内発声ありです。
母国語レベルではないので、
指差し確認的な音が必要っぽい。
あと文字で書かれた関西弁は、
読み慣れてないせいか、
脳内発声を介した方が理解できる。
そもそも関西人は作文では標準語を強制される。
手書きで関西弁書いたことないかもしれない。
ネットスラングで、
「文字で書かれた関西弁」が生まれた可能性が高い。
(これはその他の地方の言葉も同様だろう)
ネット以前の、
書く文章は標準語、
話して聞く言葉は関西弁、
という二重性が、僕の脳の中で棲み分けを起こしたのかなー。
誰か他にこの話のできる関西人はおらんのか。
関西人が標準語を話すとさぶい(気持ち悪い)から、
脳内で標準語を脳内発声ありで再生しない、
というのはありそうだな。
とくに関西弁は標準語と相性が悪いので、
特別こんなことがありそう。
脳内発声なしの俳人や作詞家はいない説、
関西人は標準語で書く時脳内発声がない説を、
仮説として出しておきたい。
誰か検証して。
2025年04月15日
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