2025年04月16日

私は真面目な女の子でした。あなたに出会うまでは。

Twitterから。
> ラテン語作文の練習問題集に「私は真面目な女の子でした。あなたに出会うまでは。(Pudica eram donec tibi occurri)」というものがありました。 何があったのか

昔のラテン語の文献にあったのか、
現代に作られた文なのかは不明だが、
いい文だ。

だけどこの文は映画にならない。


映画は具体で、現在形である。

つまり、
これを映画で示すならば、
この女の子が具体的に実在して、
学生なり社会人なりの設定を持ち、
真面目で堅物としてのエピソードを紹介して、
そんな女の子がとある男子に出会い、
恋をして劇的に変わっていき、
奔放になってゆくさまを、
具体的にエピソードとして作っていく必要がある。


ところが、
「私は真面目な女の子でした。あなたに出会うまでは。」
という一文には、
その具体がない。

「私」はどんな職業でも年齢でもいいし
(幼稚園の子でもいいし、老婆でもいける)、
「あなた」がどんな男でもいい。
(男ですらないかもしれない。犬猫もありえる)
そして「真面目なのが変わった後」も、
どんなになったかの具体はない。
処女を捨てたのか、やりまんになったのか、
道を外したのか(犯罪や薬に手を出したとか)、
何も書かれていない。

つまりこれは能面の役割をしている。
具体をここに投影して楽しむ仕掛けなのである。

省略技法というわけだ。
あとは想像にお任せしますというやり方だ。

これは、小説的である。
映画的、演劇的な手法ではない。

だから取り上げてみた。


ラジオCMの企画でよくいうのは、
「絶世の美女が現れた。」とナレーションで言ってもOKなことだ。
映像では具体的な人(浜辺美波なのか、
それともスーパーモデルなのか)が必要だが、
映像の具体を伴わない言葉だけの概念では、
「絶世の美女」は存在する。

だからラジオは小説に近いという話である。


小説が上手い人というのは、
このような省略技法というかぼかしというか、
想像させる技法が上手な人のことを言うのだろう。

一方映像が上手い人というのは、
具体を具体にしまくった上で、
それで何を象徴してるかをつくるのが上手い人なのだと思う。

同じ物語を扱ってるのに、
道具が違うというのは興味深い。
小説書く前にこれを教えて欲しかったわ。


というわけで、
我々脚本家は、
カメラで撮れるもの、
マイクで録れるものでしか表現できない。
常にそのことを意識しよう。
「私は真面目な女の子でした。あなたに出会うまでは。」
は撮影できないのだ。

そしてそのディテールをいくら映像や音楽で埋めても、
ディテールのない一文のほうが想像が膨らむ。
せっかくの余白をディテールで埋めて皮膚呼吸させない勘違いこそが、
小説の映画化が失敗する原因だろう。

(たとえばセリフとして使うことはできるが、
セックスが終わった後や告白のセリフとして使うには、
絵を説明しすぎて陳腐だろう。
あなたに向けた手紙の一節ならギリあるくらいかな)


たとえばこの女の子に名前をつけただけで、
もう抽象が具体に堕ちてしまう。
加奈子。キャシー。スザンヌ。りえ。
ベアトリクス、コンスタンティン(ラテン語の女の名前だそう)。
その具体的な女の子の話ではないのにね。
posted by おおおかとしひこ at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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