2025年04月17日

ブロッコリーの機能を逆に考える

僕はブロッコリーポスターはクソだと考えている。
出演者がただ並んだだけの、
物語の内容を示していないものが、
広い告知になるわけないだろうと。

ただ、これを見て思った。
ブロッコリーポスターは、
狭いマーケティングなのだと。

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僕にとっては、知らないアニメの知らない告知だ。
学園ものだろう。
高校生たち男女何人かの、
部活や恋や友情や進路の話であろう。
それを「ハニーレモンソーダ」という、
口当たりのいい感じで仕上げたものだろう。
楽器を持ってないから流行りの?バンドものではない。
小道具もないので特定部活でもなさそう。

僕にとっては情報量0だ。
この先の角を曲がったらもう忘れてしまう話である。
「世界は私の想像をはるかに超えて
きらめいていた」のもどうでもよい。
まあきらめくわとしか思わない。
2秒後に記憶から消える。

情報量0どころか、
何一つ新しいことを感じさせない、
停滞への嫌悪感すら感じるのでマイナスですらある。
不快なゴミを見た。
迷惑な広告だ。
広告というのは人の脳を一定時間ジャックする。
広告のない世界へいきたい。



で。

この文法、なんのために機能するかというと、
フィルターなんだと思う。

つまり、ターゲットでない人を弾いて、
ターゲットの人だけを選択的に振り向かせるという。

「ハニーレモンソーダ」をすでに見た人は、
「ああ、このキャラたちの話だ!」と、
思い出すに違いない。
具体的なエピソードも思い出すだろう。
つまり、お話がイコンなのではなく、
キャラクターたちがイコンになっている。

おそらくだけど、
「これは全体的にはこのようなストーリーである」
というモデルよりも、
「これはこのキャラとこのキャラとこのキャラが出ている話」
というモデルの方が、
脳内想起としては簡単なのだと思う。

ストーリーは線の記憶だけれど、
キャラクターは点の記憶だからだ。

ちなみに公式からあらすじを引っ張ってくると、
「中学時代にいじめられた過去を持つ石森羽花は、
自由な校風の八美津高校に進学する。
そこには、レモン色の金髪をした“レモンソーダ男子”の三浦界がいた。」
とある。

まあどうでもいい大枠だ。よくありすぎて目が滑る。
となると、キャラ押しであることがわかる。
この程度では線の記憶は残らない。
オリジナリティがないからだ。

最初から、点狙いなのだな。


で、
点狙いであろうと線狙いであろうと、
記憶は点になろう。
線(この場合、いじめられっ子が金髪男子に恋をしたこと。
たとえばこの線を示すならば、
校舎裏で影の中にいる主人公が、
角の向こうからやってきた、逆光で金髪が輝く笑顔の男子に出会う、
みたいな絵を作ることができる。
本編にそんな出会いがあるかはしらない)
の記憶よりも、
想起力としては高い。

さて、このポスターは、左に見切れているが、
FODのものだ。
ハニーレモンソーダがFODでも見れるよ、
という告知である。

どう考えても、
初めてこの物語を見る人向けではない。
「みんな、この話おもしろそうでしょ、FODへ」ではなくて、
「すでにこの話を知ってる人は、FODへ」という、
マーケティングを絞る鍵、選択的フィルタみたいになっている。

このキャラ知ってる人だけFODへ、
という動線になっているわけ。


すなわちこれはは、
「すべてに向けた『ハニーレモンソーダ』の告知」ではなくて、
「『ハニーレモンソーダ』ファンへ向けた二次告知」
になっている。


なぜ映画のポスターがブロッコリーになるのか?

すべてに向けた○○の告知ではなく、
すでに知ってる芸能人ABCD…ファンへ向けた告知なのだ。

映画は「確実なファンで商売すること」を覚えて、
「不特定多数の一般人」を「締め出した」のだ。

いや、映画館は誰でも来れる場所なのですよ、
と映画館はいうかな?
そんなポスター貼っといて?
つまり映画館は公共の場所ではなく、
会員制クラブになってしまってるわけだ。


僕が東京に来た97年ごろ、
新宿駅を降りると映画の看板がズラリとならんでた。
渋谷パンテオンでも、巨大な映画看板があった。
高校生の頃梅田駅に到着する時も、
電車から映画の看板がたくさんみえて、
ワクワクしたものだ。

あれ、いつのまにかなくなったね。
不特定多数の一般人に向けて、
わかりやすく見せ物の内容をイコン化することを、
しなくなったのだろうか?

あの、巨大看板たちがなくなってから、
映画は会員制クラブになっちゃったのかしら?


誰が出てても関係ねえよ。
おもしろけりゃいいじゃねえか。
そういう客は、映画を見ないのだろうか?
だからネットに行くんだよね?

今何やってるかも、
巨大看板がないと一覧できない。
全部ピンポイント商売になっちゃってる。

ブロッコリーは、
会員様を最大限誘導する動線なのだ。
会員以外お断りなのだね。
それでいいの?って話。



僕は、物語はすべての人に開かれるべきだと思っている。
たとえ少女限定の少女漫画でも、
普遍性をもてばオッサンでも脳内少女になれる。

多くの映画は、そのような普遍性を目指す厳しい戦いを捨てて、
マーケティングでターゲティングできる、
安易な会員制を選んだ。
その先はどうか?
大きくは、先細る。
新しくそのクラブに入る人はどんどん減ってくる。
だって若い人映画見ないじゃん。

映画デートなんてもう古いのでは。
ターゲティングされすぎて、
2人で見るものすら共通項が減り始めている。
「人間だったら見て面白いもの」くらいの、
オールターゲット映画が減ってるもの。

これは、マーケティングがバカな証拠だ。
カップル用に恋愛映画ばかり供給してるからだ。
カップルがムカデ人間をゲラゲラ笑いながら見るのが、
ほんとに幸せなカップルだって、
分かってないのだよね。


という行き詰まりの写真でした。

これを変えるには、志の高い、
オールターゲットの娯楽をこっちが考えるしかない。
posted by おおおかとしひこ at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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