2025年04月19日

【薙刀式】qwertyを愛している人もいる

Twitterから。
> QWERTY配列愛してる
> 一生変えない

こういう人がいてもいい。
ただ僕はqwertyを一生憎む。
人は異なる。その異なりを認めようというのが、
人類が到達した思想である。


異なりを認めようというのは、
「俺はお前を認めないも認めよう」
「お前が俺を認めないも認めよう」
ということである。

この人が薙刀式を認めないかもしれないが、
この人がqwertyを愛するのは認める。

同様に、
僕はqwertyを認めないし、憎むし、
殺したいし、世の中から絶滅させたい。
ただ愛する人が愛する権利は剥奪しない。

ヴォルテールの言葉を常に引用する。
「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」
それだけのことだ。


配列の自由化が僕のゴールイメージだ。

お互いに批判して、殺したいと思ってても、
殺しにかからず、共存すれば良い。

それが自由という血生臭い概念だと思っている。
自由はお菓子の世界のような理想郷ではない。
血で勝ち取ったものである。
パリ五輪のオープニングの血生臭さに、
お菓子民は引いたが、
あれが自由という記憶であるわけだ。

自由は覚悟がないと維持できない。

放っておくと人は動物に戻り、
ただ気に食わないやつを殺戮する。

自由とは、気に食わない奴の生存権を認めることである。


僕はqwertyが気に食わないし、
かつて手を壊されたから憎むし、
二度と触りたくないし、
こんなものを強制する社会を変えたいし、
できれば絶滅して欲しい。

だけど生存権は認める。

この二律背反の維持が自由という状態だ。



ということで、
配列は自由化されるべきだ。

自由化できる道具をつくるべきだし、
自由化したあとの、すぐれた配列をつくるべきだし、
自由化した社会をつくるべきだ。

大きな文房具屋にいけば体験できる。
ペンがあれだけ自由なのに、
なぜキーボードは不自由なのだ?

qwertyとJISカナの強制糞二択から、
人類を解放するべきではないか?
もちろん糞を愛する人もいるよ。
スカトロ好きは生存して構わない。
変なの、と僕は思うが、排斥はしない。
ここにいてよい。
あなたがわたしを排斥しないなら、
共に地球にいるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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