2025年05月19日

【薙刀式】カナと言霊

日本語、和語は元来言霊であった。

もう少し正確にいうと、
1カナ=1意味の言語であった。
中国語が1音=1漢字=1意味なのと同じように。

(中国語の場合4声あるから、
日本語の50音=50意味の、4倍多かったんだろう。
日本語はだから、重ね合わせ的な意味をカナに持たせている。
同音異義語と掛け言葉、ダジャレは、
だから日本語に本質的だ)


たとえば「み」を考える。

果物の「実」と、自分の身体の「身」は、
同じ「み」という概念だと思う。

中身、実体、みたいな意味。

味もそうだね。舌に感じる「み」みたいなこと。

「意味」とは、「意」のなかの本体の「み」だ。

「〜みがある」の「み」もそうだ。
そういう本質がある、そういう「身」を持ってる、
的なことだ。
あえて漢字で書けば「味」かなー。

「自ら」の「み」も、自分自身の身から、
という意味だろう。

「水」は古語では「みづ」だ。
「つ」は津、水辺と陸地の間の部分で、
常に濡れてたり乾いたりする辺縁で、
「つつ」は水が溢れて溢れて止まらないさまだから、
平安和歌の「思ひつつ」なんてのは恋の歌になるのだ、
なんて話を以前にした。
思いingではなくて、思ひがつつになる、すなわち、
「思いが溢れて溢れてとまりません、洪水みたいです、
流されそう、自我を失います、あーーーー」
なのよね。

で、みづは、そんな「つ」の「み」みたいなことだ。


「みる」は、そんな「み」を我が内部に取り入れる行為。
見る、観る、視る、診る、看る、
などでニュアンスはかわるが、
概ね「身」、本質的なものを扱う。
見るは一番浅いから、ぱっと見系に使われがち。



こんな風に、
ひらがな一つに意味があり、
それらが組み合わさり、分化して、
日本語になっていったと考えられる。

すべてのひらがな、50音にそれらがある。
ひらがなの元意みたいなこと。

ちゃんと50全部考えたことないけど、
そういうのを組み合わせて言葉(和語)はできている、
みたいな感覚がある。

(ちなみに和語を探すには、訓読みを探せばいい)



なぜ僕がカナ配列を使って、
ローマ字配列を使わないかというと、
脳内発声がなく、
意味で言葉を使い、
音で使わないから。

…なんだけど、
カナ一つ一つにこうした意味が見えてる、
重ね合わせで共感覚的になっている、
という感覚だから、
の方が近いと思われる。


僕は文字に色が見えるタイプの共感覚持ちなのだが、
カナには色や意味元素的な感覚があり、
それを組み合わせることで言葉(概念)ができている、
的な感覚をもっている。

その系列と、
子音-母音による分類の系列の感覚が、
合ってない気がするんだよね。


上の「み」の例で言えば、
「み」は、音的にはM行の「ま」「む」「め」「も」と同類だが、
「ま」=間、魔、真、空間的なところに生じるなにか
「む」=無、なにもなく停止するさま、安定するさま
「め」=光景、目、それに立ち会うこと
「も」=帯同、付帯的なまとわりつくこと、藻はそのイメージ
と、
意味的に同類とは思えないんだよね。

にも関わらず、M行の同類に分類されることに、
僕は違和感がかなり強い。
「具現物ではなく空間的な感覚に付随する何か」がM行である、
みたいに無理矢理まとめたとしても、
それが5個に綺麗に分かれるかなあ?って思っちゃう。

同様に「み」はI段でもある。
「い」「き」「し」「ち」「に」「ひ」「み」「り」(「ゐ」)
と同類に括られることの意味もよくわからない。
(それぞれのカナの元意は省略する)

「み」はM行の概念の中のI段的な概念である、
I段的な概念の中のM行的な役割である、
というわけではないように思える。
(原始、言葉は音であったから、
もっと突き詰めたらマトリクス的に分類できる可能性はあるが)


だから、
「み」=M×Iという方程式は、
頭では分類法だとわかるんだけど、
根本的な感覚としては違うと思っている。
MもIも「み」の本質と関係ないやんと。

これが、音から入る人なら、
「み」=M×Iに、なんの違和感もないのかしら。


そういうわけで、
僕はローマ字入力に、ものすごく違和感があるのね。
まだフリックみたいに、
規則的に並べた行段に従えば音が出る、
なら楽器としてわかるし、
辞書的な並べ方ならわかるけど、
qwertyみたいなぐちゃぐちゃな並びは、
全く意味がわからない。

僕が根本的にqwertyにもってる不信はそこだ。
カナの元意=言霊みたいなことが、
めちゃくちゃに配置してあるからだ。
きちがいの、または悪魔の配置に見える。

規則的配置の行段系には好感が持てる。
ああ割り切ったねとわかるから。

でもなんだかんだいって、
音の法則に指が足りてない
(5母音は5本指に対応しても、
17子音が5本指に対応してない)から、
どうやっても根本的に違うんじゃないか、
などと、
冷めた目で見ている。

どこまで行っても方便の変形で、
本質的ではないのではないか、という感覚だ。


じゃあカナなら指と繋げられるのか?

カナの持つ元意味と、指の空間感覚をつなげて、
綺麗に並べられるのか?
これが意味と指との対応だ、
みたいになるだろうか?
という問いに対して、
薙刀式は一定の答えを出している。

なんとなくこの辺にこのカナがあるといいなー、
という感覚で僕は並べ方に根拠をもっている。
これは共感覚的なもので、
理屈で説明できないところが難しいんだけど。


たとえば僕にとって軽い概念のカナは上段に、
重い概念のカナは下段に集めたつもりだけど、
何の根拠かはわからない。
しかし別の一方で、
I段E段は音が軽く小さく、
O段は音が低く重い、という世界言語共通の感覚を知り、
実際に上段にIE系が多く、下段にO系が多いのに、
驚いた記憶がある。

ただ全部は無理で、
薙刀式には物理的に排他条件があることと、
指の使用頻度や連接があることで、
この感覚オンリーで並べられないのが残念だ。
(「ね」はずっと左薬指上段であるべき、
という感覚なんだけど、
薬指がこの負荷に耐えられない。
だから合理性だけでさまよえるカナになっている。
だからv16の,裏は共感覚的にはかなり違和感のある位置なのよねー。
合理で納得させたけど、
まだv15のR裏の方が共感覚的にはよかった)


共感覚は、その感覚がない人にはオカルトっぽく聞こえるのかなー。
でも方向感覚とか磁場の感覚みたいなことと、
同じ感じなんだけどなー。

カナが持っている意味の感覚と、
指が持っている空間の感覚を一致させること
(できるだけ近づけること)が、
僕にとってのカナ配列の存在意義だ。


実は、
速度とか合理性とか連接とか排他的配置とか、
ほんとは僕にとってどうでもいい。
空間と意味が一致さえすれば、
1500とか2000とかを目標にしなくてもいいくらい。

僕にとっての「快適」とは、
究極にはそこなんよね。
それで結果400とかでもいいよ。

ただ、今のところ、
その概念的快適さは、
打鍵速度の数字に比例してる感覚がある。


その、カナの感覚に対して、
アルファベットは英語の感覚もあるから、
ローマ字はノイズが多すぎる。
そしてそれが空間的に整理されてないqwertyは、
悪魔の魔法陣に僕には見えている。
この迷宮で、指と脳が狂わされる感覚になる。

そういうqwertyの嫌い方をしてる人いるかな。
感覚としてはわかるが言語化されてないだけかな。



直感的に「qwertyは日本語を書くための道具ではない」
と僕が思うことを、
言語化してみた。

方便として道具を使うなら、
フリックは整理されてて美しい。
だけどまだ僕の「意味の身体感覚」には届いてないから、
使ってて「これが私である」という感覚はない。

薙刀式は、「これが私の意味と空間感覚である」
ように出来てて、だからしっくり来る。

他人の感覚はしらない。
だから完全オススメするわけではない。
ただ効率性はよいので、その点でオススメする次第。


究極的には、
個人個人の、意味と空間感覚をむすびつけた、
個人個人のカナ配列があってしかるべきだと、
僕は考えている。
設計がむずかしすぎて、万人にはオススメできないが。

僕がようやく
「キーボードが自我の延長になった」と思えたのは、
だから薙刀式によってだな。



(さらにその先を考えると、
僕は漢直で脳内思考をしているので、
その漢字と指を結びつけた漢直配列がほしいのだ。
薙刀式で7年かかったので、
漢直で何年かかるか怖いので、まだやる気ではない)
posted by おおおかとしひこ at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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