さっき出会った光景。
踏切待ち。
小学生低学年の兄弟が、
踏切開けたらダッシュしようぜ、と構えている。
母親が「危ないからじっとしてなさい」と言っている。
ここで、リスクというものをどう考えてるか、
が如実に出た。
電車がなかなか来ないので、
子供達は踏切の下から電車をのぞこうとしたり、
ジャンプしてくる電車を確認しようとしている。
母親は「危ないから下がりなさい、
じっとしてて、走っちゃダメ」を繰り返す。
男子たちはそんなことを聞くはずもなく、
踏切のバーを上下したり、
途中で「あの矢印の方から電車が来るんだ」などと、
左を見るべきではなく右を見るべきと気づく。
それに対して母親は、
「何があるかわからないから、
じっとしてなさい」を繰り返す。
この言葉に強烈に違和感を感じた。
何があるかわからないってことはなくない?
せいぜい、
電車にぶつかって体がバラバラに砕けるか、
手や足をレールに挟んだところに電車がきて、
手足がちぎれるかだろう。
あまりないことだが、
線路に置き石があり、電車がそれを跳ねて、
運悪く当たって死ぬこともある。
それよりもあるのは踏切のバーが頭に当たったり、
首の下から来て喉が折れる程度だ。
僕は父親的な心配で、
彼女は母親的な心配だなと感じた。
女はあまり男子のことを理解していない。
男は危険度を争う生き物であり、
どこまで勇気があるか示したい生き物だ。
だから、
「そこにどういう危険が潜むか」を想像して、
危険をコントロールするのである。
そこに制御できる危険があれば制御する。
そうやって男の人類は自然を征服してきた。
だから、「危険をよく想像して、察知して、回避せよ」
と教えるべきだ。
「何があるかわからないから、じっとしてろ」は、
男子に死を要求することと同じである。
男児たちは踏切のバーギリギリまで行こうとする。
風や振動でバーが揺れることまで想像できていない。
それで頭を打つことも男子には必要だ。
最悪目をつぶり損ねて眼球にも当たろう。
それで危険の種類や頻度や痛みを理解できる。
それを知る機会を奪われた子供達は、
かわいそうだなとすら思った。
女って何があるかわからない人生を生きてるんだな。
生きづらそう。
いや、主語が女はデカすぎるかもしれないし、
この場面だけかも知れない。
でもなぜ「何があるかわからない」になるのか、
僕にはわからなかった。
電車が通り、踏切があがり、
男児たちはバーに首をぶつけられることもなく、
仲良くダッシュして行った。
母親はダルそうにダッシュしてついていく。
きっと男児たちの無茶に疲れ切っているのだろう。
彼らに年上の兄さん友達ができて、
危険の種類とコントロールを教えてくれれば、
彼らは母親の庇護を抜けていくだろう。
でね。
「何があるかわからないから、じっとしてる」
って今の日本企業っぽいなって思ったのね。
男児たちの世界では、
そういうのは弱虫っていう。
男女同権社会で、会社に女が増えた。
彼女たちが部長権限以上をもつことで、
「何があるかわからないから、じっとしてなさい」
が増えたと考えるのは、
うがちすぎかね。
2025年05月21日
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