2025年05月21日

リスクの捉え方

さっき出会った光景。

踏切待ち。
小学生低学年の兄弟が、
踏切開けたらダッシュしようぜ、と構えている。
母親が「危ないからじっとしてなさい」と言っている。

ここで、リスクというものをどう考えてるか、
が如実に出た。


電車がなかなか来ないので、
子供達は踏切の下から電車をのぞこうとしたり、
ジャンプしてくる電車を確認しようとしている。
母親は「危ないから下がりなさい、
じっとしてて、走っちゃダメ」を繰り返す。

男子たちはそんなことを聞くはずもなく、
踏切のバーを上下したり、
途中で「あの矢印の方から電車が来るんだ」などと、
左を見るべきではなく右を見るべきと気づく。

それに対して母親は、
「何があるかわからないから、
じっとしてなさい」を繰り返す。

この言葉に強烈に違和感を感じた。

何があるかわからないってことはなくない?

せいぜい、
電車にぶつかって体がバラバラに砕けるか、
手や足をレールに挟んだところに電車がきて、
手足がちぎれるかだろう。
あまりないことだが、
線路に置き石があり、電車がそれを跳ねて、
運悪く当たって死ぬこともある。
それよりもあるのは踏切のバーが頭に当たったり、
首の下から来て喉が折れる程度だ。

僕は父親的な心配で、
彼女は母親的な心配だなと感じた。


女はあまり男子のことを理解していない。
男は危険度を争う生き物であり、
どこまで勇気があるか示したい生き物だ。
だから、
「そこにどういう危険が潜むか」を想像して、
危険をコントロールするのである。
そこに制御できる危険があれば制御する。
そうやって男の人類は自然を征服してきた。

だから、「危険をよく想像して、察知して、回避せよ」
と教えるべきだ。
「何があるかわからないから、じっとしてろ」は、
男子に死を要求することと同じである。


男児たちは踏切のバーギリギリまで行こうとする。
風や振動でバーが揺れることまで想像できていない。
それで頭を打つことも男子には必要だ。
最悪目をつぶり損ねて眼球にも当たろう。
それで危険の種類や頻度や痛みを理解できる。
それを知る機会を奪われた子供達は、
かわいそうだなとすら思った。

女って何があるかわからない人生を生きてるんだな。
生きづらそう。
いや、主語が女はデカすぎるかもしれないし、
この場面だけかも知れない。

でもなぜ「何があるかわからない」になるのか、
僕にはわからなかった。


電車が通り、踏切があがり、
男児たちはバーに首をぶつけられることもなく、
仲良くダッシュして行った。
母親はダルそうにダッシュしてついていく。
きっと男児たちの無茶に疲れ切っているのだろう。

彼らに年上の兄さん友達ができて、
危険の種類とコントロールを教えてくれれば、
彼らは母親の庇護を抜けていくだろう。



でね。

「何があるかわからないから、じっとしてる」
って今の日本企業っぽいなって思ったのね。
男児たちの世界では、
そういうのは弱虫っていう。

男女同権社会で、会社に女が増えた。
彼女たちが部長権限以上をもつことで、
「何があるかわからないから、じっとしてなさい」
が増えたと考えるのは、
うがちすぎかね。
posted by おおおかとしひこ at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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