いくつか気になった誤訳を指摘しておく。
・弧を描く
draw the arcの訳かな。
日本語で「弧を描く」は、
「ホームランボールが白い弧を描いて飛ぶ」とか、
「弧を描いたバク転が美しい」とかの物理現象の言及にとどまり、
「人生は弧を描く」のような、
比喩的表現に使われることはない。
もし「人生は弧を描く」を無理やり使うとしたら、
真っ直ぐにいかず紆余曲折があるものだ、か、
上がったら下がるものだ、くらいの意味になる。
でも含意がわからないため、
前に説明があればわかる、
くらいの言葉だろう。
ところが英語のarcには、
物理的な弧以外に意味がある。
アーク、物語の横糸◆シリーズ物のテレビドラマで、1話完結ではなく複数回にまたがる物語。連載漫画など他の表現形式で、それと同様の構成。◆
https://eow.alc.co.jp/search?q=arc#google_vignette
などのような、ストーリーになっている一連、
のような意味があるっぽい。
日本語における、直線とカーブの対比ではないっぽい。
arcの反対語はlineだろうが、
lineには、「単に時系列でものごとをならべたもの」
のイメージがあるのかな?
それに対してarcは、
すべてが因果関係で結ばれたもの、
的な意味があるはず。
なので、「弧を描く」とは訳さずに、
「ストーリーになっている」
「因果関係をもつ」「顛末がある」などのように訳すべきではないか。
(前後関係で言葉は変わる)
あるいは「弧を描く※」としておき、
※以降にこの議論をして、以後「弧を描く」を専門用語として使う、
とするべきだろうね。
日本語の「弧を描く」には、
因果関係を持った、構成として興味深く並べられた、
ストーリー構造を持つもの、という風な使い方はないので。
・葛藤
conflictの訳語だろう。
これはこのブログでもたびたび指摘しているが、
誤訳だと思う。
日本語の「葛藤」にはストーリー論でのconflictの意味がない。
日本語の「葛藤」は、
葛や藤などのツタ類が絡み合った様で、
「心の中でさまざまな気持ちが闘うこと」だ。
つまり、個人の心の中の話である。
「ああすべきか、こうすべきか、迷うこと」だ。
そして「結論を出すまで動かないこと」でもある。
ストーリー論におけるconflictは、
人と人の間におこる。
僕は対立、バトル、バチバチと訳していいと考えている。
あえて訳すなら、
「人の間の葛藤」になるが、
そんな葛藤は日本語にない。
葛藤はあくまで個人の心の中にあるものだ。
「ストーリーとは葛藤である」と誤訳してしまうと、
「ああでもないこうでもない」と悩む人を延々映す、
じっとした映画になってしまう。
メアリースーの代表例「窓辺系」だ。
(窓辺で「ふう…」と思い悩むカットばかりを撮影してしまうこと。
これは著者の意図と真逆だ。
プラスからマイナスにもなってないし、
その逆にもなっていないシーン、停滞シーンであるからだ)
「ストーリーとは対立である」と訳せば、
ある人とある人の目的が異なり、
ぶつかって対決したり妥協点を探したり、
出し抜いたり殺したりするものを映すことになる。
これがアメリカ映画のやりかただ。
個人の中にあるものを、人と人の間で表現する。
むしろ「対決」と訳してもよい。
なにかを決めるところまでを暗示できる。
対立だと静的になってしまうよね。
コンフリクトはもっと人の間の動的なダイナミズムだと思う。
なお英辞郎だと、「葛藤」の訳語は心理学に限られて、
不一致、対立、衝突がメインになっている。
例文も、betweenやwithなど、他者との関係性ばかりだ。
https://eow.alc.co.jp/search?q=conflict
昔の辞書だと第一義に葛藤が来てるものもあり、
それが原因だと思うんよな。
・皮肉
ironyは難しい。日本語になってない単語だ。
日本語で「皮肉」といえば、第一義には嫌味のことである。
汚い服に対して「きれいな服やねえ」というやつだ。
ironyの原義は「逆」だ。
「逆のことを言って嫌味を言う」
のが日本語の「皮肉」である。
第二義では、「逆の残念な結果」などで使われる。
「良かれと思って持ってきた差し入れのカレーは、
彼女が嫌いで泣き出した。
親切が皮肉な結果となってしまった」
などのようにだ。
だから「逆」が本来のironyなんだけど、
その訳語である「皮肉」には「逆」の意味が薄い。
web辞書によれば、皮肉の意味は、
1.
《名》
弱点をつくなど骨身にこたえる事を、それとなしに言う、意地悪な言葉。当てこすり。
「―屋」
2.
《名ノナ》
意地悪に見えること。「―な笑い方」「―な運命にもてあそばれる」。予期に反し、意地悪をされたような結果になること。
「―にも、みずから定めた法に裁かれる」
のように、「意地悪」のニュアンスが強い。
「逆」が第一義的になっていない。
ので、ironyを皮肉や意地悪と訳すのは誤訳だと思う。
ironyと皮肉が一対一対応してないからだ。
皮肉の方が意味が狭い。
ストーリー論におけるironyは「逆」の意味で使われることが多い。
「劇的アイロニー」がその例で、
「観客が知ってることを登場人物が知らないこと」をさす。
たとえば、「机の下にしかけられた爆弾を観客は知ってるのだが、
登場人物がそれを知らないままそこに座る」
のような状況だ。
これはつまり、観客と登場人物の知ってることに「逆」がある、
という意味だ。
「めちゃくちゃええ服着てはりますなあ」と「劇的な皮肉をいうこと」
ではない。
だから「劇的アイロニー」は誤訳というか訳し切れてなくて、
「逆のシチュエーション」くらいに意訳するべきでは、
と思う。
まあ劇的アイロニーで定着してるからしょうがなし。
フィルムアート社の脚本系の本はたくさん買って読んだけれど、
この三つは毎回誤訳されているように思える。
おそらく議論されたことがないのではないか?
今後の改善を望まれたい。
読む側としては、
弧を描く、葛藤、皮肉と日本語が出てきたら、
ハイハイいつもの誤訳ね、
くらいに構えて読んでもらいたい。
京都人みたいな言葉を使いながら、
心の中で思うだけで何もせず、
紆余曲折だけして因果関係のない、
振り回されるだけのストーリーに、
ならないように気をつけられたい。
2025年05月23日
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