僕が薙刀式を手放さない理由、そしてqwertyに戻らない理由は、
速度じゃない。
実際には自分のqwertyの3倍にはなったが、
仮にqwertyよりも遅かったとしても、
僕は薙刀式を使うと思う。
それはなぜかというと、日本語の思考が素直に出来るからだ。
qwertyの速度分布は日本語にあっていない。
日本語の加速するべきところで加速しないし、
加速しないべきところで加速するし、
減速するべきところでしないし、
減速しないべきところで減速する。
指のテンポやリズムが、日本語と合わないことがとても多い。
変なところでアルペジオ加速するし、
変なところで減速する。
文節単位でものを考える日本語のリズムと、
全然あっていないと思う。
薙刀式はそうではない。
文節の末尾に来るつなぎの語を、
強い指で打つことによって、
次々に言葉をつなげることができる。
このことによって、
日本語のリズムで書けると思っている。
リズムをつかさどる文節単位で、
文節のリズムを作れるようになる。
これが、日本語を書いている感覚になる。
上の文でいえば、
これが、/日本語を/書いている/感覚になる。
くらいの感覚で打てる。
もしこれがqwertyローマ字だと、
kore/ga,/nihongo/wo/kai/tei/ru/kankak/u/ninaru.
みたいな感じになってしまう。
書い/てい/る かんかk/u
とかが気持ち悪い。
書いて/いる かん/かく
ならマシなのに、そうはならない。
打鍵数が多いこともあり、どうしても間隔が小刻みになるのも、
この問題を拡大していると思う。
これがらが、思考するのに向いてない。
つまり、思考の邪魔なんだよ。
qwertyの指使いが。
薙刀式はなるべくそれをしないようにつくっているつもりだ。
だから、日本語で考えるように日本語を打つことができる。
それは当たり前ではないか、
と思うが、qwertyはそうなっていないから、
僕は問題視する。
qwertyでは、「日本語でものは考える」ができない。
つまり日本語でない、別のqwerty語で考えることになる。
だから文章がうまくいかないのではないか。
それは、デジタルに頭を支配されていないかってことよ。
我々の思考は日本語でやるものだ。
日本語でやらずに、変な言語に変質しているわけさ、その思考が。
それに気づくには、
qwertyの外に出ないとわからない。
それしか知らない人は、井の中の蛙だろう。
親指シフターがよく脳内ローマ字変換が、
なんていうけれど、
それは脳内で実際にローマ字変換しているわけではなくて、
親指シフトなら日本語で考えられるのに、
qwertyでは難しいよな、
ということをそんな言葉で言っているに過ぎないと考えている。
もちろん、「日本語で考える」ということを目的とした場合、
親指シフトは次善の選択肢に過ぎない。
薙刀式の方がすぐれている。
薙刀式は、親指シフトのそれをさらに日本語で考えるレベルに、
指の動きを整理したものだと僕は思っている。
(もちろん、個人差はあったり、
向いてる向いてないがあるので、
万人に、かどうかは不明だ。
どういうタイプの人にどういうものが向くのかすら、
まだ全然わかっていないのだ)
僕は日本語を書きたい。
qwertyローマ字はそれに向いていない道具で、
それを使い続けると思考が変質する。
それを避けたくて、
僕は親指シフト以上に日本語で考えられる道具として、
薙刀式をつくった。
そんな風な目的でつくられている配列は、
あまりないかもしれない。
数字的な快適さだけが指標となってることが多いからね。
手ごねという泥臭いやり方でつくられたのは、
飛鳥と薙刀式だろう。
(他にもあるが、かなり計算的に導いていることが多い)
手ごねは結局、
「指の動きと日本語があってんのか?」
を延々詰めたものだと思う。
そうじゃなければ、手の感覚がOKを出さないからだ。
飛鳥理論はよくわからないが、
薙刀式は明確に「繋ぎの語」重視という理論的骨格をもっている。
薙刀式で書いていると、
普通に手書きに近い感覚になることがよくある。
考えに集中して、手の感覚を忘れる感じだ。
気づいたら字になっている、という感覚だね。
それは、手の動かし方が、日本語にあっているから、
だと思っている。
無意識なことが多いから、そこを意識的に観察したいんだけど、
集中するほどにそこを見れなくなるのよね。
新配列の目的はいろいろある。
単に速くなりたい、楽になりたい、
ということもあるだろう。
それはそれでよい。
「ただふつうに日本語で考えたいだけなのに」
と思っている人は、薙刀式を検討してみるといいよ。
新配列は、おおげさにいうと思考が変わる。
ヘンテコなqwertyの指遣いに影響を受けた、
歪んだ遅い思考から、
背筋の通った、透き通った思考にだ。
日本人の根幹をなすものは、たとえばダシだ。
体にすっと染み渡るのが一番いいダシだよね。
薙刀式はそれを目指している。
qwerty?イガイガのモソモソやん。
身体に抵抗かかりまくり。
qwertyをどれだけ極めても、qwerty語にしかならない。
そしてそれは、日本語からだいぶかけ離れている。
同様に薙刀式を極めても、薙刀語になるだろう。
だけどそれは、qwerty語よりずいぶん日本語に近いと、
僕は考えている。
日本語とはどういうもの? それと近いってどういうこと?
を考えてる人の話はほとんど聞いたことがない。
自然な日本語の思考に合う、
手の動作の研究、と一般化すればいいのだろうか。
薙刀語は日本語そのものではないが、
だいぶ近いと思うんだよな。
2025年05月28日
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