よく言われてきたことだけど、あらためて。
アレクサンドラ構文、アミラーゼ構文について、
ちょろっと書いただけで毎日300人がいまだに読んでる。
ググって辿り着くのだろう。
構文解析的に正しい正解を導き出す、
形式主義的講師の解説はあるけど、
「なんでこんなに悪文を人は書きがちなのか、
間違いを誘導しやすい悪文を書かない方法はないのか」
について誰も議論してないのが気になる。
(Googleの検索範囲で引っかかってないだけかも)
僕はそこまできちんと解説できないが、
そもそも日本語ってさ、
英語前提のこうした論理構造を示すのに、
適してない言語よね。
英語の格文法構造は、
5文型を使って、
そこにその単語があれば何役かが、
明らかになるようになっている。
文意を見失っても、
その単語の場所を見れば、
それが主語なのか、目的語なのかを、
知ることができる。
日本語はそうではない。
語順がバラバラだからだ。
助詞や助動詞がくっつくことで、
日本語は構造をなして、
しかも語順は無限である。
目的語を先に書いてもいいし、主語でもいいし、
主語は省略できる。
英語の意味の「主語」に対応する概念が、
あるかすらも危うい。
「象は鼻が長い」の主語は、
象か鼻かで、評価は定まっていない。
(僕の考えは、「は」で示されるものは、
これからこの話題をしますよ、
という場の提供、みたいな役割ではないかと考える。
象文脈において、という感じ。
なので主語は「象の鼻」だと思う)
関係代名詞的なものや、論理構造を示す接続詞もない。
電子回路の基礎の論理学では、
基本演算子はandとorと、
自然言語接続詞を使っているが、
我々日本人には、このandとorに対応する自然言語がない。
「かつ」と「または」と訳されるが、
かなり限定的に使う語で、andとorほどメジャーな語ではない。
ここでいう論理とは、
「英語で考えられる論理」だったりする。
日本語で自然に考えられる、
英語が自然に考えられる論理は、日本語の中に存在しない、
といえる。
Do, or die.
において、「するか死ぬかだ」と順に訳すよりも、
「しろ、さもないと死ぬぞ」「死にたくなかったらやれ」
のほうが日本語として自然だ。
ここに日本語の「または」の意味はないのだ。
Don't you〜?で聞かれた時、
NoとYesが、日本語のはいといいえの逆になる。
相手の言ってることを肯定することが「はい」なので、
Noのほうを「はい」に訳すのが、自然な日本語だ。
否定形の接続詞、色々勉強したけど忘れたよね。
neither norとかクジラ構文とか。
あれは日本語の自然にはない考え方だ。
日本語に、英語の論理のような論理を表す、
一対一対応の言葉はない。
我々は、日本語で考えられる論理でものを考えている。
「象は鼻が長い」のであり、
象が主語でも、鼻が主語でもない。
日本語の論理が正しい、という立場に立てば、
英語の「主語」の考え方が間違いなのだ。
そしてそんなことはないので、
広義には「翻訳」の問題ということになる。
ここでいう翻訳とは、
「自然な英語の論理を、自然な日本語で書くこと」
「自然な日本語の論理を、自然な英語で書くこと」
という意味だ。
アレクサンドラ構文、アミラーゼ構文が悪文なのは、
英語で書けば自然に書ける論理を、
あやふやな日本語で書いているからだ。
そしてしかも、
間違った英語教育から来る、
意味としては間違ってないが、
形式としてはあってる、不自然な日本語を使っているからだ。
日本語の論理は、英語の論理と一対一対応していないので、
柔軟に日本語の論理として自然になるように、
書くべきだ。
その意識がない者が、
アレクサンドラ構文、アミラーゼ構文を書きがちだ。
形式的にあってても、
日本語で自然に理解できないなら、
日本語として誤りである。
それが国語教育で徹底されてないよね。
あーハイハイ英語論理ね、
これ日本語で書きにくいんだよねー、
まあこれなら自然に理解できるでしょ、
まで余裕を持って書き下さないと、
実は日本語で英語の論理を理解できないと、
僕は考えている。
それを理解したのは大学の数学で、
たとえばテイラー展開やマクローリン展開の証明とか、
日本語で理解するより、
英語の語順で理解した方が楽なように、
数式が書いてあることに気づいたんだよね。
極端にいうと、数式に5文型が見えたのよ。
ああ、もはや日本語で理解するのは限界で、
英語で理解した方がいい領域を勉強してるのか
(あるいは翻訳が間に合ってないだけか)、
と理解したことを覚えている。
このへん、和算だったらどう理解してたのか、
調べようと思って忘れてたわ。和算、微分まで行ってたらしいし。
そのくらい余裕があって、
はじめてアレクサンドラ構文、アミラーゼ構文を、
自然な日本語で書けると思う。
つまり、
かの構文を日本語に訳した人は、
そもそも日本語が不自由な人だ。
(日本語だけではマシで、英語の論理の訳し方だけ、
不自由な人かもしれない)
かの記事のコメントを見てもわかるけど、
形式主義的なことしか書いてないんだよね。
そんなの関係ねえよ、自然な言語は自然な範囲で伝わるように書けや、
という話だ。
そして、日本語の自然言語の範囲では、
アレクサンドラ構文やアミラーゼ構文を、
正しく書きづらいよね、
という話が記事の趣旨であったわけ。
ここは、脚本家を目指す人が読むための場所だ。
脚本は自然な日本語で書かれる。
自然な日本語で説明できる論理には限界がある。
だから、日本語の達人になるべきだ。
Do, or die.を、「するか死ぬかだ」
と訳して、テストでマルをもらうよりも、
「命がかかってる」と、テストでバツをもらうような訳でも、
頭の中に概念の数があってるように書けるかが、
日本語が上手いかどうかだと思う。
(もちろん文脈による。つまり、文脈によって、
訳出するべき日本語はまるで変わってくる。
一対一対応で誤解なく「するか死ぬかだ」と訳せるか、
までが学校教育の範囲にすぎない。
そもそも学校教育は自分らの限界を恥じてないよな。
掛け算の順番の話とかさ。スカラー積は可換だし、
日本語の語順も可換なのに)
2025年05月28日
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