ロバートマッキーの本にやたらと出てくる「アマデウス」。
85年の高校生の時に見たはずだが何も記憶にない。
予告のテーマだけやたらと覚えてて、
見たらオープニング曲にすぎなかった。
まさに序曲に過ぎないというやつかよ。
もし未見ならば、必見だ。
こんなにすごい話だと思わなかった。
そりゃアカデミー賞取るわ。
なぜすごいか。
一言で言えば、「全部逆」だから。
以下ネタバレで。
公開版とディレクターズカット版の相違は以下。
追加シーンが二つ。
1. サリエリがモーツァルトに仕事を紹介する、
その代わり妻に抱かせろと迫る。
妻は意を決して夜一人で屋敷に来るが、
脱いだところでサリエリは召使を呼び、
恥をかかせて返す
2. クライマックスの作曲の手伝いをするところ。
サリエリはむしろ曲に感動して、
本気で手伝いをする。
公開版に比べて、
サリエリはより小物で、凡人で、
そしてモーツァルトの真の信奉者だと、
解釈が深まっている。
この、凡人の人生がすさまじくたまらん。
全部逆というのはたとえば。
天才モーツァルトは名声を手にできず、
小さな部屋で酒に溺れて死ぬ。
凡人のサリエリは宮廷作曲家としてずっと貴族。
サリエリは常にモーツァルトのオペラを観劇する際に、
しかめっつらをしているが、実は猛烈に感動している。
(老サリエリの表情が全てを物語っている)
同様に、言葉とは裏腹の真意があるシーンがいくつもある。
ここが素晴らしく良い。
これは嘘だと明らかにわかるセリフがいくつもあり、
それが効果的だ。
皇帝の音楽を褒めたりはわかりやすいが、
その後何度もそうした腹に一物のシーンがある。
モーツァルトの「私は下品ですが、私の音楽は違います」という、
どっちが彼の本質かわからないところ。
「私が殺した」と最初から前振ってるくせに、
「いよいよ殺すのか」となったクライマックス、
彼の楽譜を書き留める手伝いをすること。
嫉妬による殺意が、才能への感嘆に変わるところ。
モーツァルトの「あなたに嫌われてると思ってた」
という真実の告白に何も返せないこと。
凡人の頂点の勝利者と勝ち誇る、そこは精神病院。
ああ、これは「ジョーカー」ではないか。
サリエリはジョーカーだったのか。
というか、ジョーカーを書いた人は、
アマデウスを下書きに、
モーツァルトの狂気の笑いとサリエリの冷静さを、
足して二で割ったんだな。
ジョーカー2が何故凡作だったかも理解できる。
アマデウス成分がなかったからだね。
成功が嘘くさい。失敗だがこの音楽は成功。
常に逆だ。
真実を全て理解してるのはサリエリだけ。
そしてそのサリエリは狂った者扱い。
何が真実かわからず、
モーツァルトの名声と曲は永遠に残り、
サリエリの名も曲も残らない。
すごい物語だ。
ハリウッド映画は、コンフリクトを尊ぶ。
つまりは対立である。
サリエリとモーツァルトの対比、
サリエリの本心と外面の対比、
その対立がすさまじい。
「全部逆」が、つねに強烈な両極になってるのが、
とてもよい。
しかもその「全部逆」が、
サリエリが初めてモーツァルトに出会った、
コンスタンツェとじゃれ合うシーンで、
すでにモーツァルトが「逆の言葉遊び」をしてるんだよね。
「ツケにスキ」→「ケツにキス」
(和訳も大変だったろう)
すげえ脚本。
極め付けは「アマデウス」のタイトルだ。
単にモーツァルトのミドルネームだと思ってたら、
「神に愛される」という意味なんだってさ。
神に愛されたモーツァルト、
神に愛されることだけを求め、だが愛されず、魔道に落ちたサリエリ。
完璧なタイトルじゃん。ふるえるわ。
これを「アマデウス」としか訳せなかった配給、
反省しろ。
こんなホン書けねえよ、
って思ってオリジナル舞台版を調べると、
元々のアイデアに短い戯曲があり、
舞台版は途中で書き直して6版まであるそうだ。
(ブロードウェイ初演では、サリエリはイアンマッケランなんだって。
あんたそんなすごい男だったのか)
次々にアイデアを足し、引き、
対立をより深めていったのだと予測される。
そしてその頂点が、
オリジナルの舞台版脚本家ピーターシェーファーによる脚本と、
豪華ロケアンド完璧録音の音楽。
こんな贅沢やっていいのかの極み。
テーマは凡人。
なぜ人には才能がないのか。
嫉妬に狂って才能を殺そうとした男が、
最後に才能の手伝いをする、
その人間の姿よ。
すべての人間に捧げる、
ほんとうの物語だと思う。
努力しても努力しても結果の出ない、
99.9%の人間に贈るべき物語。
これ以降の映画はたいへんだな。
これを超えることなんてできるのか。
2025年05月29日
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