2025年05月29日

予告編はどうあるべきか(「アマデウスディレクターズカット」評2)

その映画の本質をどう見るべきか。
その映画の本質をどう大衆に訴えるか。
それをごく短く表現するのが予告編だ。

これがどうあるべきか、
2種類の選択肢がある。

映画を見た上で論じるべきなので以下ネタバレ。


アマデウスには、2種類の予告編がある。
並べて比較できる動画を見つけたので。

https://m.youtube.com/watch?v=g62wkln14eo&pp=0gcJCdgAo7VqN5tD

前者をA、後者をBとしよう。
Aは本編を見た人なら理解できる、
完璧な本編の抽出だ。

無邪気にメジャー曲を口ずさむ神父、
「You wrote it!」と感心する。
「I didn't.」と絶望的に返す老サリエリ。
これがこの映画の全てだ。
メジャーになれなかった、天才になれなかった凡人。
モーツァルトの一番の理解者。
その万感が、「I didn't.」に込められている。

あとはその事情をカットバックしてゆく。
これは老サリエリの語る、
天才モーツァルトと、それに憧れた男の物語だ。

これはこの映画の構造そのもので、
強烈な対比があることを暗示している。
すごい予告編。これだけで見る価値がある。
本編を一度見てれば英語がわからなくても大体わかっちゃう。
いい予告編だ。


一方Bは、プロデューサーズカットともいえる、
「大衆向け予告編」だ。
天才モーツァルトの華麗なるオペラと王宮の話、
噂話、モーツァルトとサリエリどっちがすごいのか、
殺人、ミステリー、爆発、豪華オペラ、
亡霊のような黒いマントの男、裏表に顔のある黒いマスク。

本質ではない、客引きの部分を凝縮した予告になっている。

本編を見た人は、
別に殺人の話でもミステリーの話でもないし、
爆発はただの演出だし、
亡霊のような黒いマントの男は実は父親だし、
裏表に顔のある黒いマスクは、
単なる仮面舞踏会のマスクで、2面性を暗示してるわけでもないし、
とわかってしまう。

モーツァルトがすごいのか、サリエリがすごいのか、と、
作曲対決する話でもないし。

Bは、「こういうのを並べたら客寄せになるだろ?」
と制作側が思っているものでできている。
かなり誤用というか、本編の素材を曲解して繋ぎ合わせている。

華麗なるオペラの舞台で競い合うモーツァルトとサリエリ。
だがサリエリはモーツァルトを殺した、
そのミステリーだ!犯人は黒マントの謎の男???
みたいな、火曜サスペンス並みの知能の低さに、
仕上がっているわけ。

トップカットにも使われてるポスターの謎の黒マスク、
カッコいいよねー。
(余談だが、「さよなら銀河鉄道999」の黒騎士ファウストのデザイン、
これをパクってたのだとこれを見て理解した。
すげえカッコいいと思ってたのによー。
ちなみにこのデザインは、アニメ版幻魔大戦のベガにも、
引き継がれてるよね)


でもこれ、重要なモチーフ(モーツァルトは父の支配に恐怖を感じていた、
その幻影)ではあるものの、
テーマ=サリエリという凡人とは関係がない。
(サリエリがモーツァルトを追い詰めるために利用した道具でしかない)

だけど、
「なんかありそう」なやつだけを集めて、
ワクワクさせるのにはもってこいの小道具だ。

Bはそうした、
「作品の本質」を無視して、
「大衆が好きな俗なやつばかり集めたもの」
だと言える。

監督はBを見て怒ったろうな。
Aが監督や脚本家がやりたいこと、
Bがそれを大衆向けに翻案したもの、
という温度差がビンビンに伝わる。
Bを作るのは簡単だよ。火曜サスペンスをつくればいい。

でもAがやったことは、
嫉妬、殺意、諦め、助ける、
この感情がないまぜになった、
凡人の「I didn't.」だ。
このオリジナリティは、映画を見ないと把握できない。
予告編の短い尺で理解できるものではない。

それを分かった上で、AB両方作ったのだと思う。
賢い戦略だ。


さて、日本配給はどうだったか。
僕はB版しか見てないんだよな。
ネットを探してもBしか出てこなかった。
https://m.youtube.com/watch?v=P6iCpgvH1NY&pp=0gcJCdgAo7VqN5tD

華麗なるオペラ殺人事件、くらいに矮小化してるねえ。

これじゃこの物語の偉大さが全然伝わらないね。
Everything you heared, it's true.という、
hear、音楽劇と噂話を引っ掛けたキャッチコピーも、
「あなたの聞いた噂は全て真実だ。」と、
半分の意味になっている。

音楽が豪華、オペラが豪華、
サリエリが恨みによる犯人、
奇人天才モーツァルトは常識人サリエリに殺された、
そしてそれは永遠に封印された、
その謎を解く、
みたいなB級ストーリーに見える。

これを期待して見に行った観客は、
むしろ「期待と違う」と思ったのでは?
たしかに華麗なるオペラはあるが、
B級より難しい文芸作品を見させられた、
という印象ではないだろうか?

僕が高校生くらいの頃、
やたらと宣伝してて、実際にテレビ放映を見た時も、
「なんか難しくてようわからん、
こういう難しいのが賞を取るのかなー、
衣装や音楽が賞を取ったのだろう」
などと適当に流していたのも、
予告や扱いのせいだったと思えば、
よくわかる。

40年の時を経て見直したら、
全然ちゃう話やんけ。

神に愛されなかった才能のない男が、
モーツァルトという才能を憎み、愛した話だよこれは。
そしてモーツァルトは大衆には理解されなかったので、
私だけが彼の才能を真に知っている、
という話なんだよな。
愛憎といえば簡単だが、この二律背反がテーマなのだ。

これが人間の本質だ、
どこの物語は提出していて、
まさにそこがすごいのだが、
それをAで表現しているのだが、
まあ伝わらんだろうなー。

それでも、アメリカでは、
2種類の予告編を使い分けていたと思う。

大衆向けにはB、映画好きにはAと、
メディアを分けてたかもしれない。

こういう作戦が重要だと思う。
なぜなら、
映画とは、モチーフBで客を引き、
テーマAを描くものだからだ。

以前「ゼログラビティ」のタイトルについて議論した。

原タイトルは「グラビティ」なんよね。
無重力に投げ出された男が生還して、
生の実感を得るから、グラビティと、
テーマAに沿ったタイトルになっている。
だが日本公開版は、
モチーフB、無重力下の冒険に合わせて、
「ゼログラビティ」とタイトルをつけたんよね。


どうも、日本の宣伝部は、Bこそ映画だと思ってる節がある。

これが日本映画の低迷と関係してそうだ。
おもしろげなモチーフなんて金がかかるし、
金をかけたとて有限だから、
いつか使い果たされるわけだ。
CGがいっとき新しいBとして使われて、
3Dも新しいBとなった。
伝統的演劇では、歌や踊りがBであったろう。

劇中劇の大衆演劇でもあるように、
「壁を突き破って出てくる」「巨大木馬」
「魔法の粉」「爆発」「リアル炎で踊る」
「高低の抑揚の強い発声」「バレエ」
なんかがBとして使われている。
それは「低俗」の象徴なんよねー。

もしBが映画だと思うなら、
それは日本の宣伝部の大変な間違いなので、
襟を正すべきだ。

映画は、Bを用いてAを描くもので、
Aが万人にとって興味のあるものだから、
人は感動するのである。

予告編は客寄せだからBだけでいいのでは、
というのは考えが浅すぎる。
それでは夜店の大道芸人とおなじでしょ。
映画がそれより進化したのは、
「Bを用いてAを語る」を獲得したからだ。
いや、大道芸人でもこの領域に来てる人はいるよね。
ピエロの笑顔で、人生の悲哀を語るなんて普通にやるよな。

Bで人を惹き、Aで満足させるのが、
映画や芸の本質だと僕は思う。

それをBしかやんなかった日本の配給は、
ほんとうにレベルが低い。

そしてそれは、85年当時から、
さして進歩しとらんと思うわけさ。


宣伝部のレベルが低いから、映画は傾く。
Bだけが欲しいなら、
ネットにたくさん転がってる。
そうじゃないものを、映画で見たいんだよ。
すごいBで描いたすごいAをね。

あー、角川宣伝部はマジで理解してなかった。
Bだと子供映画になるからAをやると、
予告やポスターでAの最大ネタバレをする最悪宣伝部だった。
二度とやらない出禁だ。
何が映画か分かってない。



アメリカは、さすがにわかっている。
だから映画大国なのだ。少なくとも2010年代までは。
今Bをいじられるポリコレで、
どうなっていくかは予断を許さないが。
posted by おおおかとしひこ at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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