前記事から続ける。
一般論として面白そうなので。
写真で一番強いのはカメラ目線である。
どっかよそを見ている写真より、
カメラ目線のほうが強い。
だから宣伝ポスターは、
カメラ目線の写真を使うことが多い。
イケメン美女がこちらを見てるだけで、
それは見る価値のある写真だからだ。
しかしそれでは物語の世界とかけ離れてる、
という思いもあろう。
なぜなら、物語には第四の壁があり、
登場人物は決して観客と目を合わせないからだ。
これは演劇や映画の隠れた前提だ。
登場人物たちは登場人物だけがそこにいるていで、
芝居をしている。
観客はそこにいないことになっている。
観客は第四の壁(四方に囲まれた部屋を想定すると、
登場人物たちは四方で囲まれた部屋の中でお話が展開しているのだが、
観客たちは一枚壁を取り除いてそれを覗き見しているわけだ。
この、取り除いた壁を第四の壁という。
第四の壁は透明なのだが、登場人物にとっては単なる壁、
という約束事なわけ)
から、物語を見ている。
だから、登場人物が突然カメラを見るのは変だ。
「おや?この壁に穴が空いてるぞ?」もしくは、
「この壁は透明で、向こうにたくさんの人が見てるぞ」
となってしまうからだ。
(それをわざとやったのが劇場版エヴァだが、
寒かったよな)
だけど写真で一番強いのはカメラ目線。
ここに、ポスターと物語の齟齬がある。
演劇はカメラ目線でも不自然ではない。
カーテンコールで役者が出てきて、
お客さんにご挨拶する時は目を合わせるからだ。
だが映画ではそうではない。
物語は観客と目を合わせずにはじまっておわる。
目を合わせることはない。
たまに、エンドロールでカメラ目線でカーテンコールをするタイプの映画がある。
たとえばインド映画ではダンスをしたりする。
「スラムドッグミリオネア」「RRR」なんかがそう。
「時をかける少女」(大林宣彦版)が極端。
見ればわかるけど、「作品が台無し」って思っちゃうのよね。
せっかく「その世界がある」と信じてたのに、
虚構って作り手がバラしてしまう寒さがある。
なんだサンタはいなかったのかよ的な。
だから、映画のポスターはカメラ目線であるべきではない。
そう考える人も多い。
だけど写真で一番強いのはカメラ目線。
この矛盾を解消するために、
「できるだけ正面の顔を使う」技がある。
で、それを集めるとブロッコリーになるんよな。
ブロッコリーポスターは最低だ。
物語の世界と遠いからだ。
だったら諦めてカメラ目線で全員が挨拶すれば良い。
ドラマなんかは割り切ってそうしてたりするね。
物語の世界、テーマを、
一枚絵にするのが理想のイコンポスター。
しかしカメラ目線ではないし、
イケメンや美女が目立たない。
この、内容と興行的理由がないまぜになっているのが、
映画ポスターの世界だと思う。
「マトリックス」のポスター知ってる?
なんとブロッコリーだ。
あれだけ斬新な世界観を提出したのに、
世界観やテーマ押しじゃなくて、
ブロッコリー押しなんよなー。
つまんねえの。
なぜブロッコリーがダメかというと、
出オチになるからだ。
出オチチェックをすることが、物語を鑑賞することではないからだ。
「アマデウス」を鑑賞することは、
凡人がどれだけ望んでも得られない才能が、
あんなクソみたいな若者にあることに、
歯軋りをすることである。
サリエリ役が誰かとか、モーツァルト役が誰かを、
チェックして喜ぶことではない。
その、誘導線にポスターはなるべきだと思う。
ロッキーのポスターはわかりやすい。
フィラデルフィア美術館の階段をかけのぼり、
朝日に両手をあげるシーンである。
物語の重要場面ではないが、
努力や勝利やチンピラからの駆け上がりという、
大枠のテーマを暗示している。
(しかも見たことのない写真だから良い)
スタローンはこの時新人だから、
顔のアップよりも、物語の世界観がウリと思われたのだろう。
ちなみにブロッコリーポスターも存在した。
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これはパンフの表紙らしい。
まあ、見たことのない人用ではないよね。
僕は、見たことのないビジュアルで、
しかもテーマをうまく表現してるのが最高のイコンだと思う。
ついでにカメラ目線になってるのが完璧かもね。
そのポスターAと、
ブロッコリーBの、2種類のポスターをつくるのが理想だな。
それが一種類しか作れない予算だから、
世の中にBが溢れるのだろう。
2025年05月29日
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