ロバートマッキー「ストーリー」のオリジナリティ?
というか他では聞かない理論の骨子の中に、
「設定は外面に過ぎない」というのが興味深かった。
しばらくその話を映画のネタバレなしで進行します。
なぜ設定しても話をつくることが出来ないのか?
キャラクターが生き生き動く現象は、
設定から出来るのではないのか?
このことに対して、ロバートは、
「設定は外面しかつくらない」と断言している。
外面といっても見た目だけのことではなく、
こういうときにこうする人とか、性格とか、
つまり「表の人格」しか定義しないと。
それはストーリーではない、という考え方だ。
ストーリーがストーリーになるのは、
「外面的な人格を脱ぎ捨てて、本当の姿が現れたとき」だと。
それはいつかというと、
「追い詰められたとき」だというのが彼の持論だ。
そしてそれは、言葉ではなく行動に現れると。
行動がその人の真実を語る。
行動が設定上のその人の外面的な姿ではない、
本性を暴く。
追い詰めたとき、普段ではしないことをすることに、
その人の本性が現れる。
このことはかなり勉強になる。
いろんなことが一本の線でつながった感がある。
勉強になるので、「ストーリー」は必読本ですらある。
さて、「アマデウス」だ。
当然、これは主人公サリエリについていくつもあるわけだ。
以下ネタバレで。
調子よく宮廷作曲家をやっていた時はよかった。
だがモーツァルトの出現によって彼の人生はまるでゆがんでしまった。
彼はつねに外面を崩さない。しかし追い詰められたときに本性を現す。
教えていたオペラ歌手とモーツァルトが肉体関係にあったと知ったあと、
皇帝の前で結婚を勧めたこと。
彼の妻、コンスタンティンに肉体関係を迫ったこと。
彼女が意を決して服を脱いだ瞬間に、
私は被害者だとばかりに召使を呼んだこと。
この、小ずるい本性が、サリエリである。
外面的には神に名曲をつくらせてくれ、と祈り続ける彼の、
宮廷作曲家として社会的地位がある彼の本性が、
追い詰められたときに暴かれるのだ。
ここまではよくある小物の悪役だ。
だけど、ここからがサリエリの本性で、
彼はモーツァルトの音楽の陶酔者なんだよね。
楽譜を読めばそれが天上の音楽だと理解するし、
マーチを改変されても、
それが良い音楽だと思えば何も言わないどころか感動するし、
彼のオペラの話を神父にするときは、
まるで陶酔した顔で絶賛する。
そここそが彼の本質だ。
小物なのに、陶酔者なのだ。
だから面白いのだ。
この逆があるから、サリエリが単なる悪役ではなくて、
主役になるのだ。この複雑さこそ人間であるわけだ。
アマデウスが傑出しているのはここなんだよね。
サリエリは小物悪役を持ちながら、
こと音楽に関してはものすごい耳を持っている。
そしてそれを作る力だけが彼にない。
この矛盾そのものが人間である、
というのがアマデウスが映し出した人間観というわけだ。
クライマックスもだからめちゃくちゃ面白いわけ。
ついにモーツァルトを殺す機会を得た、その瞬間、
彼はモーツァルトの採譜を買って出る。
書いてるうちに、天才の音楽が出る瞬間に立ち会い、
猛烈に楽しくなってくるわけだ。
この、素直な凡人こそサリエリなのだ。
だからこれを良いと思える人は、
結構人生経験をしてきた人かもしれない。
子供や若者では、そんな矛盾を悪だと思い、
もっと純粋に生きたいと思うからだ。
結局人間は矛盾の塊なのだ、ほら私たちのように、
と思えるほど、酸いも甘いもかみ分けて来た大人だけが、
サリエリを「あれは私である」と思うのだ。
最初の話に戻ると、
設定だけでストーリーが書けないのは当然とすら言える。
設定という外面からどう離れるか、がストーリーなのだから。
出発点しかつくってなくて、目的地やルートをつくっていないに等しい。
そりゃ話は1ミリも進まんわな。
追い詰めること。
普段ならしない行動に追い込むこと。
その時に本性が出る。
その本性こそが、物語の核心になる。
アマデウスはその物語であった。
だから面白いんだよなー。
たとえ精神病院に入っていても勝利しているといえる、
そのラストは壮絶だ。
(これをオペラ殺人事件という砂糖菓子の袋にくるんだ阿呆は誰だ)
2025年05月30日
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