2025年05月30日

人間の本性と外面(「アマデウスディレクターズカット」評5)

ロバートマッキー「ストーリー」のオリジナリティ?
というか他では聞かない理論の骨子の中に、
「設定は外面に過ぎない」というのが興味深かった。

しばらくその話を映画のネタバレなしで進行します。


なぜ設定しても話をつくることが出来ないのか?
キャラクターが生き生き動く現象は、
設定から出来るのではないのか?
このことに対して、ロバートは、
「設定は外面しかつくらない」と断言している。
外面といっても見た目だけのことではなく、
こういうときにこうする人とか、性格とか、
つまり「表の人格」しか定義しないと。
それはストーリーではない、という考え方だ。

ストーリーがストーリーになるのは、
「外面的な人格を脱ぎ捨てて、本当の姿が現れたとき」だと。
それはいつかというと、
「追い詰められたとき」だというのが彼の持論だ。
そしてそれは、言葉ではなく行動に現れると。
行動がその人の真実を語る。
行動が設定上のその人の外面的な姿ではない、
本性を暴く。
追い詰めたとき、普段ではしないことをすることに、
その人の本性が現れる。

このことはかなり勉強になる。
いろんなことが一本の線でつながった感がある。
勉強になるので、「ストーリー」は必読本ですらある。

さて、「アマデウス」だ。
当然、これは主人公サリエリについていくつもあるわけだ。

以下ネタバレで。



調子よく宮廷作曲家をやっていた時はよかった。
だがモーツァルトの出現によって彼の人生はまるでゆがんでしまった。
彼はつねに外面を崩さない。しかし追い詰められたときに本性を現す。
教えていたオペラ歌手とモーツァルトが肉体関係にあったと知ったあと、
皇帝の前で結婚を勧めたこと。
彼の妻、コンスタンティンに肉体関係を迫ったこと。
彼女が意を決して服を脱いだ瞬間に、
私は被害者だとばかりに召使を呼んだこと。
この、小ずるい本性が、サリエリである。

外面的には神に名曲をつくらせてくれ、と祈り続ける彼の、
宮廷作曲家として社会的地位がある彼の本性が、
追い詰められたときに暴かれるのだ。

ここまではよくある小物の悪役だ。
だけど、ここからがサリエリの本性で、
彼はモーツァルトの音楽の陶酔者なんだよね。
楽譜を読めばそれが天上の音楽だと理解するし、
マーチを改変されても、
それが良い音楽だと思えば何も言わないどころか感動するし、
彼のオペラの話を神父にするときは、
まるで陶酔した顔で絶賛する。

そここそが彼の本質だ。
小物なのに、陶酔者なのだ。
だから面白いのだ。
この逆があるから、サリエリが単なる悪役ではなくて、
主役になるのだ。この複雑さこそ人間であるわけだ。

アマデウスが傑出しているのはここなんだよね。
サリエリは小物悪役を持ちながら、
こと音楽に関してはものすごい耳を持っている。
そしてそれを作る力だけが彼にない。
この矛盾そのものが人間である、
というのがアマデウスが映し出した人間観というわけだ。

クライマックスもだからめちゃくちゃ面白いわけ。
ついにモーツァルトを殺す機会を得た、その瞬間、
彼はモーツァルトの採譜を買って出る。
書いてるうちに、天才の音楽が出る瞬間に立ち会い、
猛烈に楽しくなってくるわけだ。
この、素直な凡人こそサリエリなのだ。


だからこれを良いと思える人は、
結構人生経験をしてきた人かもしれない。
子供や若者では、そんな矛盾を悪だと思い、
もっと純粋に生きたいと思うからだ。
結局人間は矛盾の塊なのだ、ほら私たちのように、
と思えるほど、酸いも甘いもかみ分けて来た大人だけが、
サリエリを「あれは私である」と思うのだ。


最初の話に戻ると、
設定だけでストーリーが書けないのは当然とすら言える。
設定という外面からどう離れるか、がストーリーなのだから。
出発点しかつくってなくて、目的地やルートをつくっていないに等しい。
そりゃ話は1ミリも進まんわな。


追い詰めること。
普段ならしない行動に追い込むこと。
その時に本性が出る。
その本性こそが、物語の核心になる。

アマデウスはその物語であった。
だから面白いんだよなー。
たとえ精神病院に入っていても勝利しているといえる、
そのラストは壮絶だ。
(これをオペラ殺人事件という砂糖菓子の袋にくるんだ阿呆は誰だ)
posted by おおおかとしひこ at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック