この映画がすごい、
この場面がすごい、
などは客観的ではなく、主観的だから。
つまり、その人の経験によってしまう。
しばらくネタバレなしで進行します。
あまり経験のない人は、
なんでもすごいって思っちゃう。
騙せるわけだ。
色んなすごいものを見てきた人は、
いや、まあそんなもんじゃすごいと言えないよ、
と冷淡である。
フィクションの、
たとえばラスベガスのショウのほうがすごかったとか、
宝塚のほうがすごかったとか、
黒澤のほうがすごかったとか、
あの映画のあのシーンのほうがすごかったとか、
色々出てくるだろうし、
実体験の、
ヤクザとバチバチあったことのほうがすごかったとか、
あの人との恋の方がすごかったとか、
なるものだ。
老人は感性が鈍るのだろうか。
いや、歳を取るほど、
「あれのあれのほうが凄かった」と、
他と比べるものが増えてしまう。
だから無表情になってゆく。
一方、子供はなんでも新鮮だから、
表情はくるくる変わり、なんでも吸収して、
なんでもすげー!ってなる。
中年くらいは?
「ふむ、まだ私が涙を流せるものがあったのか、
心震えるものがあったのか」と、
「残りを潰す」ように生きてるかもしれない。
さて。
我々は、すごいものを書かなければならない。
それは、ガワの凄さか、中身の凄さか?
ガワの凄さは、
映画は資本主義なので金に比例する。
巨大なセットをつくる、
豪華な衣装をつくる、
大爆発を撮る、
危険な絵を撮る、
などなどだ。これは大作主義といえる。
大作でなくとも、
小品でもたったワンシーンに金を注ぎ、
すごいシーンを作ることはあるよね。
ハッタリになることもある。
金に比例して、子供騙しから老人まで巻き込むまで、
色々あると思う。
ただこれは、アメリカ映画の得意技であり、
日本映画の得意技ではない。
「七人の侍」は撮りたいけどさ、
そんな金はもう日本にあまりないことくらい、
薄々感じているだろう。
だから我々は、
中身の凄さを用意しなければならない。
中身の凄さって?
感情移入の凄さだと思う。
こんなに気持ちを持ってかれたことはない、
というすごさだと思う。
アマデウスはその意味で、すごい映画だ。
以下ネタバレして解説する。
もちろん、ガワの凄さはすさまじい。
チェコのオープンロケはまるで中世だ。
(チェコがロケ地に選ばれた理由は、
近代の発展から取り残されて、
古い建物ばかりだったからだそう。
山形で時代劇撮るみたいなことよね)
モーツァルトが初演した実際の劇場でロケをしたり、
オペラは豪華だし、音楽も衣装も凄すぎる。
蝋燭照明もすごかったよね。
これによって、「目で見る極楽」「耳で聞く極楽」を、
極めた映画になっている。
(予告編Bはそれ押しなわけ)
ところがこの映画の本質は、
中身の凄さだ。
それは、
「神に愛されなかった才能のなかった男が、
いかにして才能のある生活力のないダメ男を追い詰めるか」
という話と、
「なのにその才能の全てを愛してしまったがゆえに、
最後の最後にその才能を助ける」
話が同時進行していることの、
矛盾というすごさである。
彼のために作曲した、
皇帝の弾けるレベルの簡単な曲を、
もう覚えたんでといわれてしかももっと良く直されてしまう恥。
妻が持ってきたオリジナル楽譜を見て、
神の音楽を聴いてしまうこと。
この二律背反こそ、
この矛盾こそ、愛と憎しみの同居こそ、
人間であるというすごさ。
私たちはサリエリではないが、
もし私たちがサリエリになれば、
同じことを思う。
なぜなら私たちは神に愛されたわけではなく、
だけど成功のために何かを犠牲にすることはあるし、
それでもなお勝てなかったことは何度でもあるからだ。
この感情を刺激されるから、
私たちはサリエリではないが、
私たちはサリエリなのだとわかるからだ。
この、負の感情への訴えがすさまじい。
私たちはサリエリのような悪事はしない。
だけど、
サリエリがモーツァルトの妻コンスタンツェに、
「一人で夜屋敷に来い、そうすれば夫に仕事を紹介する」
と迫るところや、
その妻が本当に屋敷に来て、嫌がりながら服を脱ぐところに、
ハラハラする。
やったことはないけれど、
その気持ちはわかるからだ。
そこでぎりぎりやらなくて、
帰してしまうレベルの小物ぶりに、
ますます我々はサリエリにのめりこむ。
完全な悪人には感情移入できないが、
サリエリは庶民なのだよ。
(save the cat)
ディレクターズカットにしかないこのシーンが、
サリエリへの感情移入を決定的にしているのだ。
こんなことをしておいて、
サリエリはモーツァルトを「ばれないように」追い詰める。
黒いマスクの男を使いにして(本人が行かないのがせこい)、
レクイエムをつくらせる。
金で吊り上げ、恐れた父の幻影で苦しめる。
ああ、なんという庶民的な追い詰め方だ。
そして使いの者にマスクを被らせる、
用意周到な庶民ぶり。
直接手を下さないというのがサリエリの全てだ。
ここで変な行動をしないのがとてもよい。
映画の主人公は、行動するから英雄なのだ。
サリエリは行動できなかった男。
だから失敗したのだ。
ここで自ら仮面を被っていたら、
本当の悪になってしまった。
サリエリは悪にもなれなかった。
だから敗北したのだ。
この、人生の真実をひたすら語られるから、
我々は自分の人生と比較して考えてしまうのだ。
どこかで自分の人生は間違っている。
ギリギリサリエリのような悪事はしてないが、
どうせするなら行動するべきではないか?
だが行動しなかったことで、
サリエリは敗北したのであり、
自分の人生もそうなのではないか?とね。
この、自分の人生とサリエリの人生を比較して、
観客の中で葛藤させるから、
この映画はすごいのだと思う。
つまり、物語がその中で閉じてなくて、
観客と対話してるとすらいえる。
「お前の人生はどうだ?
サリエリはこうだぞ。だから負けたんだ」と。
サリエリに凡人として感情移入すればするほど、
そしてモーツァルトになれずに、
モーツァルトのオペラを見ることしかできないほど、
我々はサリエリと自分の人生を比較せずにはいられない。
人類にいるごくわずかな成功者は、
アマデウスを見ても面白くないかもしれない。
だけど人間のほとんどは、
大成功しなかった者である。
ごくわずかな成功者も、
ある面では失敗したと思ってるかもしれない。
つまり、
我々はどこかの面で人生を失敗している。
それがサリエリだ。
この、我々とサリエリの結びつきの強さこそが、
この映画のすごさだと僕は思う。
こんな風にアプローチした映画は、
古今東西これだけなのではないかな。
他にもあったら教えてください。
凡人を「俺普通の高校生」みたいに描いた例はあるけれど、
こんな風に現代と全然違う世界で描き、
ここまで強烈に感情移入させる例は少ないと思う。
そしてクライマックスよ。
ベッドでただモーツァルトの口から出る音を、
楽譜に書くだけなんだぜ。
映画のクライマックスというのは、
大抵すごいアクションが来るものだ。
それが、対話しながら採譜するという、
よく考えればものすごいミニマルなクライマックスなのだ。
だが宇宙は無限の広さで音楽として私たちの胸に迫る。
コンスタンツェが馬車でウィーンに急ぐドラマティックな絵に、
当たっているから凄さが際立つ。
ただの書き写しカットバックにしなかった、
この映画的構成が、クライマックスたるゆえんだ。
だけど、
人間が取るアクションとしては極めてミニマルで、
この映画は構成されていることに気づかれたい。
コンスタンツェに夜屋敷に来いというときに、
楽譜を床に捨て、踏んで去る。
コンスタンツェが脱いだ時に、
ベルを鳴らして召使を呼ぶ。
黒マスクの代理人は、去る時マントを翻す。
そしてクライマックス、ペンで楽譜を書く。
すべてアクションで表現されているから、
強く記憶に残るのだ。
そしてそれは、庶民ができるアクションだから、
庶民のできることに収まっているのだ。
だからサリエリに限界があり、
だから我々に限界があることを痛烈に思うのだ。
それでも、
モーツァルトの遺稿を書き留められたことだけは、
彼の功績である、のような、
小さな小さな満足が、
サリエリの人生で成し得た唯一のこと。
結末は精神病院。
だがそれは、凡人の頂点とサリエリは笑う。
何が成功で何が失敗か、
私たちは自分の人生と照らし合わせて考え込んでしまう。
サリエリの人生は勝利だったのか、
敗北だったのか、それともその間か。
私の人生は。
この、「サリエリと私との間の絆」が、
この映画のすごさだと僕は思う。
ここまで自分が揺さぶられる映画は、
なかなかないよな。
つまり、人類の中で最も成功した人と、
最も失敗した人二人をのぞいて、
全員サリエリなんだよな。
これが、ガワが小さな話、
学園ものや会社ものだったら、
ここまで揺さぶられないのかもしれない。
壮大気宇な宮廷オペラだから、
小さな人間との対比が効いているのだと思う。
デカい宮殿、デカい劇場、
集まる人々、権力。
こうした中に、
楽譜を踏む、ベルを鳴らす、楽譜を書くという、
小さな小さなアクションしか起こせないサリエリ、
という対比こそが効いている。
(余談だが、モーツァルトが自室で作曲するとき、
ビリヤード台でボールを滑らせて、
ボールが帰ってくるまでに1フレーズ書く、
というシーンは地味にすごかった。
ピアノがなくて完全に頭だけでつくってるすごさや、
ビリヤード台という遊び台でやってるのがモーツァルト的だし、
正確に投げて正確に帰ってくるときは曲が進み、
投げ方が乱れて帰ってこないときは曲がうまくいかない、
みたいな使い方もすごかった。
こんな作曲シーンみたことないよね。
このシーンのためだけに、
その前にモーツァルトがビリヤード台に興じる、
というシーンがあるんよなー。
この作曲法は、
サリエリがピアノと羽ペンで几帳面に書き、
皇帝に献上したリボン付きの譜面に仕立て上げたことと、
これまた対比的だ。
サリエリは形式だけで中身がなく、
モーツァルトは形式は破天荒で中身がすごいという対比だ)
こうした、
大と小を意識したことのために、
ガワの予算を確保することが、
アメリカ映画のすごさよね。
日本映画はこのすごさに、
どうやったら勝てるかな?
日本のすごさを生かすしかないと思うんだ。
ガワは日本のすごいなにか、
そして中身は感情移入に足るなにか、
そのすごさを作っていくべきだろう。
アマデウスは、映画を見慣れてる僕が、
久しぶりにすごいと思った映画だ。
サリエリの庶民ぶりがすごいのだ。
それで、モーツァルトの音楽を一番愛してるのが、
また庶民的でいいんだよ。
これでモーツァルトの音楽をクソだというのが、
普通の対立じゃん。
そうじゃないのがサリエリの最大の魅力なのよね。
この、我々の心が上下する感じこそが、
アマデウスの中身のすごさである。
ディレクターズカット版、
ぜひ堪能していただきたい。
3時間かかるのでインド映画並みの体力準備な。
人類のたどり着いた、ガワと中身の融合の、
極北を経験できると思う。
これこそ芸術である。
2025年05月30日
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