2025年05月31日

【薙刀式】日本語を触っている感覚

なんでオールコンベックスキーキャップなんて、
突飛なキーキャップのほうがいいのか、
ふと考えると、
「普段触ってるペンが丸いから」なんじゃね?
などと思った。


ラクダエンさん:
> 多分もともと右手を通じて文章の仮想構造体に触れてて、それが左手にも拡がったんじゃないか
> 脳内の触覚処理モジュールを利用して文章に触れる(タイピングの指感)みたいなこと考える

文章の仮想構造体というか、
僕にとってはカナも漢字も表意文字なので、
意味に直接触れている感覚。
しかも書き順という一連のミミズという形で。

それに触れているのは、
「丸い」ペンだ。
鉛筆でずっと書いてたら、
六角形キーキャップを作ってたかもしれない?
(でも運指は六方ではなく八方になるから、
八角形が合理的そう)

なので僕は、
丸い何かを触りながら、
ミミズのような軌跡をもって、
意味を触ってるのだといえる。

オールコンベックスキーキャップは、
その感覚のタイピング的再現だとふと思った。

もし僕が凹んだペンを使っていたら
(どんなんや)、
ふつうのコンケイブのキーキャップで満足したかもね。


右手で丸いものに触りながらごにゃごにゃ動かすことと、
意味が僕の中でつながっている。
触覚による共感覚のようなことかな。

なので文章を手書きで書くとき、
僕は文字を書いてなくて、意味を書いてるんだよね。

脳内発声のある人は、
音を書いてるのかな?
音符みたいなことかしら。
僕が楽譜が読めないのは、
音楽的素養のなさもあるが、
そもそも脳内発声しない習慣による弊害が大きそうだ。

カナも漢字も表意文字である、
という感覚はこのように、
僕の手の中で感覚としてある。


例外がカタカナだ。
なんか記号っぽい。アイウエオには意味がなく、
なんか違う言語みたい。

音が伴うこともある。
シュレッダーとか、
「自分の初期からあったものではない、
あとから登場した言葉や概念」は、
音を伴いがち。
ズボンやパンツは音がない。
パソコンはほぼないけどPCはある。
アメリカやフランスやイギリスはないが、
アイルランドやアルバニアやチリなど、
大人になって覚えた国や固有名詞には音がある。

僕がなるべくカタカナ語を使わないようにしてるのは、
バカに見えないように、という意思表示でもあるが、
音が出るやつは思考の邪魔まであるからだ。




薙刀式は、
この、丸いものをごにゃごにゃする、
という皮膚感覚、右手の感覚を、
どうにかしてタイピングに移植したもの、
ではないかと考える。

だから、まずは右手アルペジオなんじゃないかなー。

左手アルペジオは、右手ができたら、
簡易的なやつはできるよな、というくらい。
左右交互は、
左→右は自然にできるのでまあ使う。
右→左は「不自然」だから使わない。
横書きにはあり得ないし、
縦書きでも字の画がそっちへ行く文字はない。
(払いや跳ねぐらいだが例外的に「払う」「跳ねる」を伴う)


丸いものに触りながらぐねぐねする、
という「触覚と意味」の結びつきこそが、
僕が文字を書いている感覚
=意味に触っている感覚
なのだと思われる。

なのでオールコンベックスにたどりつき、
右手でデフォルトでできてたのが、
左手にある程度拡張できたんだろう。


これができて、初めて「手が消える」になる。
頭の中の意味と、仕上がりだけが問題で、
間の手や道具を気にしなくて済むようになる。


僕にとって、
qwertyローマ字や、凹んだキーキャップは、
いつまでたっても方便でしかなくて、
手が消えるなんてことは一切なかった。
ずっと邪魔だった。
ディスプレイの文字の間に、
隔靴掻痒的な、何枚も靴を履いてた感覚だった。

それがいま裸足どころか、
消えてる感覚になっている。

「触覚」とかいうけど、皮膚で感じる類のものではなく、
乗り物に乗ってる時のような、
Gを感じる感覚といってもいいのかな。
手が動くわずかなGを感じながら、
それが意味に連動している感じだ。
(広義にはG感覚、加速感覚も触覚に入るが、
触覚という言葉からはそこまで想像できない)


そうそう、手書きの時も、
出来上がった文字などほとんど見てないのであった。
心の目は今書いてる内容を見ていて、
ピントの外で間違った字を書いてないからチェックする程度。
それで正確に文字が書けてるかは、
手やペン先を動かしたGの感覚で把握してるわ。

微妙に指の角度と丸いペンの当たり方も変わるから、
そこからの情報も取ってるかもだね。




書くことへの解像度が高ければ高いほど、
キーボードを「打つ(書くとは言わない)」
ことへの違和感は強すぎる。

なんでこんな「違う」道具を使わないといけないのかが、
わからなくなる。

僕がずっとやってきたことは、
キーボードをペンで書くように魔改造すること、
だったのかもしれない。

見様見真似で「キーボードは左右の手で打つものだ」
をやったから、たまさか左手領域まで、
Gの感覚が広がったのだろう。


そうそう、キーボードの議論が、
静的なことが多いのがいつも気になっている。
キーボードは動的でしょっていつも思う。
それは、Gという動きと意味が僕は繋がってるからで、
動かないものは存在しないのと同じじゃね?
って思うんだな。
posted by おおおかとしひこ at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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