2025年06月02日

【薙刀式】認知、意味、視点の移動

ラクダエンさん:
> 「動作が思考を導く連続的思考タイピング」では、意味には触れられても認知には触れられない……ような気がしている。言葉そのものに意味はあっても認知はない。認知の媒介に過ぎない。じゃあ、身体的感覚を通じて認知そのものを触るとすれば? ……調べか?

視点の移動=憑依によって、かな。


僕はずっと三人称スタイルでやってきたので、
一人称スタイルのような地の文の認知の、
存在しない領域で書いている。

仮にABの二人の話だとしたら、
Aの視点の認知、Bの視点の認知、
観客の認知の、三つの視点を同時的に移動しながら、
全体を眺めたり細部に触ったりしている。

分かりやすい例はアンジャッシュのコントか。

AはXをYだと思っているのと、
BはXをZだと思っているのに齟齬があり、
それを確認しないまま話を進めるので、
笑いが起きるという構造だ。

もちろんこれは三人称形式。

しかも、

Aの認知=XをYだと思っていて、Zとは全く思ってもいない
Bの認知=XをZだと思っていて、Yとは全く思ってもいない
観客の認知=ABに認知の齟齬があり、
 お互い思い込んでて気づかないとわかっている

の3種類の認知を使い分けないと、
このコントはつくることができない。

ただABの認知が異なるだけだと、
「認識の違う喧嘩」にしかならない。
そうではなく、
「その齟齬におもしろみがある」のは、
観客だけがわかることである。

この3種の認知があり、
我々はこれを不自然な複雑なことと考えず、
それをただ見て笑うのみだ。

だけど簡単には真似できない。
3種の認知を同時に使い分けられる、
書き手が必要だからね。


これをやるには、視点を移動する必要がある。
Aから見たB、
Bから見たA、
「Aから見たBとBから見たAが違う」とわかってる観客、
の3点にだ。

あし体だから、これを楽に跳躍できるのだろうか。
僕は自然にやってるので、
当たり前すぎて実のところよくわかっていない。

逆に地の文の存在や意味を、
よくわかってないんよね。
三人称形式には不要だし、あってはならないからね。
だから小説は上手くないんだろうなー。


アンジャッシュのコントを噛み砕いたやつが、
警官「道路が寄生虫です」
ドライバー「えっ」
というやつだね。
警官は規制中の意味で話していて、
ドライバーは寄生虫だと思い込んでいる。
その齟齬の裂け目が広がっていくコピペだ。

原文探したらあったので貼っとくか。
---
警官「寄生虫なので、できれば引き返して最初の信号を右に行って下さい」
ぼく「えっ」
警官「寄生虫ですから、引き返してください」
ぼく「なにそれひどい」
警官「えっ」
ぼく「ぼくが寄生虫ってことですか」
警官「寄生してるのは警察ですよ。寄生してるので重体なんです」
ぼく「えっ」
警官「えっ」
ぼく「だれが重体ですか」
警官「誰というか、まぁここを通った人全員ですかね」
ぼく「あなたも僕に寄生しますか」
警官「えーとね、あのですね、この先でトラックが横転して積荷が産卵したんですよ」
ぼく「えっ」
警官「つまり事故ですね」
ぼく「何が産卵したんですか」
警官「精肉業者のトラックで、冷凍された肉が産卵したみたいです」
ぼく「なにそれやばい」
警官「ええ」
ぼく「重体の人は大丈夫ですか」
警官「えっと、まぁ寄生虫とはいえゆっくりと動いてはいますから」
ぼく「なにそれこわい」
警官「えっ」
ぼく「えっ」
警官「とにかく、先ほどから警察が現場の方で超刺してますから」
ぼく「なにそれもこわい」
警官「えっ」
ぼく「えっ」
---

これはコントでは逆に難しい。
寄生虫と規制中など、文字で示せるものを、
音だけで区別して分からせるのは大変だろう。
2ちゃんコピペならではのコントといえる。

これも、お互いズレた認知の視点へ飛び、
それを俯瞰してる読者の視点へ飛べないと、
おもしろいぞと判断できないだろう。
(警官は固定しておいてぼくをコントロールすればよいから、
アンジャッシュのコントより簡単だろう)


このように、
登場人物個々の持っている情報よりも、
観客が持っている情報の多い(または少ない)状況を、
舞台用語で劇的アイロニーとよぶ。

アイロニーは皮肉の意味ではなく、「逆」くらいの意味だ。

これを使いこなすには、
登場人物個々の視点(認知)、
観客の視点(認知)に、
都度飛び回る必要がある。



ちなみに一人称小説では、
地の文の認知は絶対ではなく、
その人の知り得た全てでしかないので、
叙述トリックを容易に仕掛けることができる。

ところが三人称では、
全体をカメラが撮ってるので、
AはXをYだと思い込んでいても、
観客にはYじゃなくてXやんけ、とバレバレなんだよね。
なので叙述トリックを仕掛けるには、
「Aは実は狂っていた」しかないんよな。
Aの認知が歪んでいたため、
観客もAの視点で見させられていたのだ、的な。

(これを利用したいくつかのどんでん返し系映画があります。
タイトルをいうと即ネタバレになるので紹介はできない。
どんでん返し系映画でググってみてみると、
その中のいくつかに含まれると思われる)


一人称形式が、
視点や認知を移動しないというわけでもないだろう。
たとえば往復書簡形式は代表的な認知ラリーであろう。
もちろん、もっと細かいレベルでの認知の移動もありえる。

地の文という軸足のない三人称では、
視点や認知が常に移動しないと、
観客の認知をコントロールできないのだろう。
むしろ、観客が地の文役だ、ともいえる?



というわけで、
認知的な意味には常に触っている。
これまでは右手一本だったのを、
左手に拡張してなんとかやってる感覚?
デュアル操作よりもシングル操作のほうが楽なのはたしか。
(と思って昔右手カナ配列を考えたことがあるが、
フリックでええやんとなった記憶)
posted by おおおかとしひこ at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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