さて面白いことになってきた。
ラクダエンさん:
> つまり、大岡さんに見えてるのは「空間的な全体図」であって、「時間的な全体図」ではないのね、ってこと。その場にいる全員の立場を切り替えられるとしても、それは「その場の思考」であって「認知」ではないんだと思う。多分それが映画で、小説はそうじゃない。
ああ、認知という言葉を、
その場の「今の思考」ではなく、
これまでずっと積み重ねてきた思考の完成形みたいな、
ぜんぶとして使ってらっしゃるのね。
その意味では、
空間的移動的認識では、
「今の思考」しか見ていない。
そして、今の思考を追いかけ続けるのに、
連続的思考タイピングは向いていると思う。
映画や演劇というのはリアルタイムで進む前提なので、
この「今」を取り逃がすと滑るのよ。
たまに講演するときに、
一字一句原稿を用意して、現場ではただ読むだけの人いるけど、
あれは寒い。
「今の空気」と分離してるからだ。
今の空気を読みつつ、この空気を変えていくことが、
講演をするというリアルタイムなのよね。
芝居の本質はこのリアルタイム性にあると思う。
その台本を書くことがメインだから、
僕はこういうスタイルになってきたのだろう。
身体性、同時性、連続性、流れ重視。
で、
たしかに今しか描けないのだが、
人には記憶というものがあり、
「さっきはこうで今はこう」がある。
ので、
そこに変化をつけていくのだ。
ターニングポイントとか変化アークとかいうんだけど、
「さっきと今はちがう」を、
どれだけ作れるかがお芝居の醍醐味になってくる。
流れが変わった、潮目が変わった、
流れを変える、潮目を変えることをする。
で、それを何度もやると、
最初はA1、次にA2、さらにA3…と、
徐々に変わっていくことになる。
この積分が認知になってゆく。
映画的、演劇的ストーリーというのは、
微分的今を連続することで、
はじめはXだった認知が、
積分後Yに変わるまでを描くものだ、といえる。
その差分、Y-Xを獲得することが、
映画的演劇的ストーリーだともいえる。
そして間接話法
(自分の思ってることを観客に筒抜けにせず、
登場人物が他人に何かを言っている場面をみて、
観客が想いを察する)なので、
「私の認知はXです。
現在X2で、最終的にはYになりました」
と言わずに、それを表現するメディアなのだ。
というわけで、
映画における「認知」とは、
登場人物の記憶の中にあり、
観客に残された記憶のような形をしていると思われる。
それは「察しろ」のような形をしているため、
直接手で書かないから、
間接的には書かれているが、タイピングの対象ではない。
その意味では認知に触れているわけではないだろうね。
「ぶぶ漬けでも食べていきなはれ」という言葉には触れるが、
「帰れや」には触れていない感じだ。
小説における地の文では、
これに直接触れることができる。
「私は彼が帰れと強く念じながら、
笑顔でぶぶ漬けを作っていた」などのように書くことができる。
もっと洗練することも可能だろう。
たとえば三島由紀夫的に書いたり、村上春樹的に書くことはできそうだ。
脚本では、
「笑顔で『ぶぶ漬けでも食べていきなはれ』と言う」
しか書けない。
リアルタイムで今起こっている、
他人が見る時間しか書けない。
(ちなみに映画に地の文を入れた大失敗作に、
「私の可愛くない先輩」がある。これは必見。
ぜんぶ「見たらわかるわ!」とつっこんでしまう。
一人称世界を三人称で見るとこんなにはずかしい、
ということが露わになった実験作である。
これは村上春樹のハードボイルドな語りが、
他者から見て厨二病、ということと同じだ。
一人称では酔いだが、三人称では酔っ払いなのだ)
というわけで、
「認知」の居場所?形態?が、
映画と小説では全然異なると考えられる。
我々はそれぞれのメディアに特化した言語体系や思考体系や、
タイピング体系を作ってきたのだと考えられる。
同じ日本語なのにねえ。
まあこれは、
小説の映画化がなぜつまらないか
(=小説の豊かな語りが映画になるとスカスカになるし、
そのままやると寒い)、
映画のノベライズがなぜつまらないか
(=映画で起こってることをわざわざ解説されてもねえ)、
というメディア変換がなぜうまくいかないかの、
本質的な説明だとも思う。
なぜ映画「ノルウェイの森」はコケたのか、
の説明にもなっている。
なお僕は漫画には2種類あると思っていて、
映画的漫画と小説的漫画だ。
前者は少年漫画に多く、後者は青年漫画、少女漫画に多いと思う。
もちろん間のグラデーションもあるし、
場面による使い分けもあると思う。
どっちも使えるのが、漫画というメディアが強い原因だと思われる。
前者を表現しておいて、
「今何が起こったのか、解説せねばならない」と、
後者にスルリと移行する刃牙的な使い方もあるし。
というわけで、
「今を追いかける」ことに、
連続的思考やタイピングは有効で、
それを指の流れに落とし込む薙刀式は、
そうしたことに向いている。はず。
(ただし人の発話の3000字(変換後)/10分には、
全然追いついていなくて、1500が平均、最高1900程度)
2025年06月03日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック