前記事の続き。
書き終えて「はあすっきりした」は、
あなたの言いたいこと、共感してほしいことを書き終えた、
自己カウンセリングの結果かも知れないので、
この気持ちになったときは要注意だ。
あなたの中に積もり積もった何かがある。
誰かに否定されたことや、
分かってくれないことや、
疎外された何かだろう。
それを作品に昇華して、
「やっと吐き出せた」という状態が、
「はあすっきりした」の正体だとしたら、
あなたは脚本の書き方が間違っている。
絵、音楽、私小説、その他の芸術では、
こうした自己昇華が作品につながることもある。
それは集める人が映画より少なく、
似たようなシンクロしてる人を、
同様に癒す効果があるからだ。
だけど映画の規模は、
それよりもずっと大きな観客数だ。
何万、何十万人では赤字だ。コケたうちにはいる。
何百万人で原価回収ライン、一千万人で大ヒット。
ふつうの小説が10万冊で大ヒットの世界、
100万枚売れれば大ヒットの音楽の世界とは、
桁が異なることに注意されたい。
だから、
あなたと同じすっきりをしたい人は少ない、
という前提から始めるべきだ。
二つ方法がある。
ひとつは、
あなたと同じ苦しみを与えて、
あなたと同じ出発点に観客を立たせること。
二つ目は、
あなたと同じ苦しみや解放でない、
まったく別のものを描くこと。
第一のアプローチは、小さな映画に多い。
予算が少なく、単館系だ。
撮影規模も小さいので、半径2mの話になる。
映画だけでなくドラマやCMでも同じだ。
たとえば炎上した東京ガスの就職活動のやつは、
「就職活動で辛い人」と同じ苦しみを前半で与えたため、
同じ辛さを持つ人に「辛い」とシンクロされたのが原因。
そして、その辛さに対して、
おかんの料理が対価として救いにならなかったことが、
最大の原因である。
https://m.youtube.com/watch?v=wyg1g-yNKMg
(東京ガス 炎上CMなどでググれば誰かがアップしている)
これは結局、
「私は救われたい」と思う作者が、
「私は救われた(リアリティやその度合いは置いといて)」
という状況を書き、
勝手にセルフ昇華している、
作り手のオナニーになることがとても多い。
客観性がなくなりがちだからだ。
「本当に辛い人は1カットだけで辛さがわかるのでは」
「わかりにくい人にわかるように描こう」
「そしてその逆転をきちんと描こう
(あるいは、あったかい料理で救えるレベルの不幸にしよう)」
のような、
客観性がなくなりがち、ということ。
あなたが就職活動で全線全勝するほどの能力がない限り、
これをちゃんと描くことはできない。
つまりこれは、ハナから失敗する題材だ。
第二の方法はより困難だが、
成功の確率の高い方法だ。
「自分」という井戸に落ち込まずに、
客観性をもって描けるからだ。
たとえば上の話は、
不幸>幸福だから問題であり、
その幸福が自分で勝ち取ったものではなく、
他人(母)によってもたらされたもの
(メアリースー)だから問題なのだ。
ということは、
幸福>不幸にバランスを変えて、
幸福を行動で勝ち取れば良い。
しかし就職活動を勝ち取る一般的な法則はなく、
ガスのCMでありリクルートのCMではないので、
母親を主人公にすればよい。
つまり、母が、つらい娘を料理で救う、という話に基礎設計を変えるわけ。
設定同じ。
帰宅時間がバラバラな娘でも、
ずっと待ってて、娘が帰ってくる時間がカン(足音?)でわかって、
先に料理を温める母親を描いておく。
あるいは公園で泣いてる娘を目撃して、
そっとしておく母を描いておく。
そんなある夜の食卓で。
「なんでバラバラな時間に帰ってくるのにわかるの?」
「家族だからね。うーん、足音が聞こえるからかな」
「犬かよ」
「笑」
「なんで毎回あったかいご飯がでてくるの?」
「だって、辛い世間に出会ったあとに、
冷たいごはんじゃ辛いでしょう?」
「…別に辛くないし」
「じゃあ、…がんばれ」
「…うん(食べながらぼろぼろと泣く)」
「早く食べないと冷めちゃうよ」
「うん。うん」
それを見守る母親。
あったかければ、人はがんばれるから。
東京ガス
みたいになれば、
「母親が料理という行動で、娘を元気づける」話になる。
料理は就職活動を成功させることはできないが、
心を暖かくすることができて、
それは就職活動では得られない幸福である。
就職活動というちっさい話にとどまらず、
もっと大きなスケールを描けるわけ。
そんなふうに、
辛い状況を他人として設定して、
幸福を得る行動、その成功を他人として描ければ、
映像は成功しやすい。
「自分の疎外が救われる」ではなく、
「他人の疎外を救う」話にすれば良いのだ。
映像には一つ嘘があると良い。
この例では、「娘の帰宅時間に合わせて料理を温める母」だ。
それがあると奇跡を起こしやすく、
嘘が一つまでならば、人は物語を受け入れる。
もちろん、その奇跡に出会った人は、
嘘ではなくリアルであるべきだ。
だから母親にそう言われた娘は、
「別に辛くないし」
と母親に弱味を見せないのがリアルだと思う。
「そうなの私辛かったの、暖かいご飯が私を救うの」
なんてなったら、嘘が二つになってよくないのだ。
その、嘘と本当のバランスをコントロールしながら、
誰かの不幸を、誰かが幸福へ逆転することを、
他人として描ければ、
第二の方法は成功するだろう。
物語にはカウンセリング能力がある。
カタルシスとはそれを言い表した言葉だ。
それは、観客全員をカウンセリングするべきで、
作者一人だけ救われなくてもよいのだ。
作者のカウンセリングは、
別のところでやりたまえ。
執筆をセルフカウンセリングに使うべきではない。
なぜなら、オンエア版CMのような、
クソオナニーメアリースー失敗作になるからだ。
2025年06月05日
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