映画「アマデウス」は、
劇作家ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」の映画化で、
自ら映画用に脚本を書き直した。
監督とは激しい喧嘩をしながらだったと後にいわれている。
その内容が気になり調べると邦訳版戯曲があったので、
読んでみた。
かなり興味深い。
以下に映画版との差異を議論したい。当然ネタバレ。
最大の違いは、
僕が映画版で最も良いと思ったクライマックス部分、
「サリエリがモーツァルトのレクイエムの採譜の手伝いをする」
が、舞台版では存在しないことだ。
舞台版では、
黒マント(舞台版では灰色と表記されている)
に身を包み、モーツァルトを追い詰めるところまでは同じだが、
立ち去ったあとにモーツァルトは孤独死して、
妻のコンスタンツェが温泉療養から帰ってきて、
遺体を発見することになっている。
その後サリエリは権力も名声も握ったが、
誰も私の曲を覚えていない、
覚えているのはモーツァルトの曲だけだ、
と悩み、そうだ、私が暗殺したことにしよう、
それを告白して自殺すれば、
「私は永遠の存在になれる」と思い込み、
カミソリ自殺を決行して失敗して終わる。
この、その後のサリエリは映画版では省略され、
冒頭の前にあったことになっている。
映画版ではその後精神病院に収容されて、
「凡人の頂点だ!私の勝利だ!」と狂ったまま終わる。
つまり、
舞台版では悪役として描かれるサリエリは、
映画版ではより凡人として描かれるのだ。
テーマが少し異なってくる。
舞台版は「凡人ゆえに悪役になった男」だが、
映画版は、「凡人ゆえに悪役になり、
凡人ゆえに素晴らしい音楽の手伝いまでしてしまう男」に、
より真実味を増しているんだよね。
舞台版は戯画化したもので、
映画版はよりリアルに迫ったもの、
さらに奥深く一段彫り込んだものになっているのが、
凄まじいと感じた。
書いた本人でなければ、
この深化は難しかったのではないかと感じる。
ていうか他人がこの改変をしたら、
失礼まである。
「私以上に私の作品を理解しているっ……」に、
なったのではないかなあ。
「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」で、
脚本監督した押井守は、
原作者高橋留美子に激怒されたそうだ。
まだ描かれてもいない、
原作の最終回を先にやってしまったからだ。
それくらい、映画が本質に迫ってしまったのだ。
他人にそれをやられたら怒るわな。
だけど、本人がさらにその深さにたどり着くには、
どれだけの苦労をしなければならないか、
考えただけで脳から血が出そうだ。
だけどピーターはやったのだ。
やりきったから、
映画版は燦然たる出来になっている。
舞台には、映画にない文法があり、
舞台版はそれを使いまくっている。
「サリエリが観客に向けて喋ること」である。
その間、周りにいる人は動きを止めて、
サリエリの語りが終わったらまた動き出す、
までト書きに指示がある。
「この時私はこうだったのだ、そしてその後これが起こったのだ」
などのように、観客に向けて全部を解説するのだね。
これは一人称形式ともいえるだろう。
映画でこれは不可能なので、
映画版では「神父への告白」という形で、
語りを重ねることに成功している。
サリエリの語りは、本編よりもむしろ豊かで、
これをナレーション処理するのは悪手だし、
映画にはないからといってごっそりカットするのは、
さらに悪手だ。
なので老サリエリが過去を回想する形で、
ちょいちょい挟み込んでいく、
という映画版の構成は、
映画の文法をもちいて舞台版を再構築する、
という点ではかなりの技巧だと感じる。
また、その神父との出会いの場面で、
老サリエリが「この曲を知っているかね?」
とピアノを弾き、神父が首をかしげ、
「私が作った曲なのだが」と残念がるのを2回やり、
「ではこれは?」と3曲目を弾き、
「ああ!知ってます!タンタラタンタラタンタラターン、
この曲もあなたが?」
「……私ではない」
という、とても短いシークエンスで、
サリエリの置かれた状況とその絶望感を示す、
見事なエピソードは、
映画版で新しく書かれた部分であった。
このたった1シーンで、
サリエリのことがほとんどセットアップされる、
素晴らしいシーンなのだが、
これを舞台版から新しくつくるのは、
相当大変だったと思う。
舞台版の構成は、映画版より単純である。
老サリエリが、
私がモーツァルトを暗殺したのだ、
と独白して、
若き頃に話を飛ばして、
時々観客に独白して解説して、
モーツァルトの死後、老サリエリに戻して、
私は不滅になりたいと自殺しようとして失敗、
で終わる。
名声はあるが凡人として終わるのみだ。
この、頭と尻の構造(クライマックスまでも!)をまるごと変えて、
間の独白を、神父への告解にした点が、
見事な構成計画だと思った。
これはリライトの、
ものすごい勉強になる。
実は本編そのものは大きく変わってないんよね。
頭と尻がメインの改造点になってるんよな。
これで本質をより深化させたことが、
映画版「アマデウス」の、
仕事の凄まじさだと思う。
映画はラストで決まる、という決定的な仕事をしたなあ。
映画版を作るに当たって、
当然モーツァルトのオペラのシーンは、
再現必須であったろう。
舞台版では音楽のみで表現される数々のオペラを、
劇中劇として華麗に再現する、
というのは映画版のガワとして、
最も魅力がある部分だ。
だが、ともすればそれに引っ張られて、
「アマデウス」はモーツァルトの華麗なる話、
と勘違いさせていることについては、
以前に議論した。
ほんとうはとても暗い話だ。
嫉妬の話なのだから。
そして才能のない男の話なのだから。
舞台版では、
「策略で追い詰めて、ついに決定的な何かはしなかった男」
として描かれているサリエリが、
映画版のクライマックスでは、
行動で本質を示していることに注意されたい。
やはり映画はアクションなのだね。
採譜する、あの病床でのシーンは、
サリエリという人間がどういう人間であったのかを、
最も表しているシーンだ。
あれによって、舞台版のただの凡人悪役が、
「究極の凡人」になったと僕は思う。
いい曲があったら夢中で手伝っちゃうんだからね。
笑っちゃうくらい凡人だ。
それで心が通じ合うまである。
モーツァルトの採譜ができるほどの実力は、
サリエリにしかなかったんだ。
努力で登ってきた男と、はるか先の才能。
それに直接触れられる喜び。
ああ、究極とはこういうことだ、
という新しい人間像を描き切ったと思ったな。
そうそう、
公開版映画にないが、ディレクターズカットにはある、
「サリエリが妻コンスタンツェの肉体を所望する」は、
舞台版でガッツリ描かれていた。
これをカットしろと指示した人は、
人間の暗部をわかってないし、
それは受けないと分かってるとも言える。
僕はある方が全く持ってよくわかると思う。
なお、
舞台版ではサリエリには妻がいることになっている。
映画版では妻も娶らず、とよりストイックに追い込んでるので、
モーツァルトとの友情がより尊く、
神との関係性がよりクリアになるね。
いい改変だ。
サリエリの生徒がモーツァルトに寝取られるが、
舞台版ではサリエリがその後寝取り返して愛人にまでしている。
寝取り返さず、妻コンスタンツェを襲う動機とした、
映画版の方が巧みだ。
わかりやすく復讐の動機が繋がっている。
あとは細かい修正や辻褄合わせといった感じ。
そうそう、大きな改編として、
舞台版には「風」役がいる。
場面場面の前に出てきて、
状況の変化を噂話の形で設定してくれる人だ。
舞台にはこういう人がいることが多い。
説明役として割り切ってるんだね。
映画版はそれがないため、
説明ゼリフは本編内でうまく処理するか、
老サリエリの説明に紛らせていたのだと思われる。
全体的な印象としては、
舞台版は、物語を「説明された」という気がして、
映画版は、物語を「体験した」という気がする。
地の文=独白がないことで、
説明が体験へと昇華したわけだ。
そうそう、説明ばかり聞いてると、
「いいわけはいいから、さっさとやれ」
と思ってしまうのは、僕が映画畑だからだろうか?
映画は「やる」で表現する、
アクションの連鎖なんだなあ、
ということがよくわかる、
舞台版と映画版の比較であった。
比較したい人はまだアマゾンにあるので、
戯曲を入手されたい。
ハヤカワ演劇文庫50「ピーター・シェーファー1 ピサロ/アマデウス」
映画は演劇から出発したものであるが、
独自の文法を得て、
全く異なるものとなった。
演劇の独白や噂話をする役は、
映画にはない。
その代わり映画にはクローズアップがあり、
音楽があり、シーンの切り替えやカットバックがある。
描く内容や本質が異なるのは当然だ。
いやー、しかしピーター、
こんな仕事やったら二度と立ち上がれないよなー、
と調べると、
これ以降2本しか書いてないっぽい。
魂を持ってかれたんだろう。
これは1人の人間になし得る、
最大の仕事のような気がする。
ぜひ両方比較されたい。
2025年06月07日
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