2025年06月07日

自作を生まれ変わらせること(戯曲「アマデウス」との比較)

映画「アマデウス」は、
劇作家ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」の映画化で、
自ら映画用に脚本を書き直した。
監督とは激しい喧嘩をしながらだったと後にいわれている。

その内容が気になり調べると邦訳版戯曲があったので、
読んでみた。
かなり興味深い。

以下に映画版との差異を議論したい。当然ネタバレ。


最大の違いは、
僕が映画版で最も良いと思ったクライマックス部分、
「サリエリがモーツァルトのレクイエムの採譜の手伝いをする」
が、舞台版では存在しないことだ。

舞台版では、
黒マント(舞台版では灰色と表記されている)
に身を包み、モーツァルトを追い詰めるところまでは同じだが、
立ち去ったあとにモーツァルトは孤独死して、
妻のコンスタンツェが温泉療養から帰ってきて、
遺体を発見することになっている。

その後サリエリは権力も名声も握ったが、
誰も私の曲を覚えていない、
覚えているのはモーツァルトの曲だけだ、
と悩み、そうだ、私が暗殺したことにしよう、
それを告白して自殺すれば、
「私は永遠の存在になれる」と思い込み、
カミソリ自殺を決行して失敗して終わる。

この、その後のサリエリは映画版では省略され、
冒頭の前にあったことになっている。
映画版ではその後精神病院に収容されて、
「凡人の頂点だ!私の勝利だ!」と狂ったまま終わる。

つまり、
舞台版では悪役として描かれるサリエリは、
映画版ではより凡人として描かれるのだ。

テーマが少し異なってくる。
舞台版は「凡人ゆえに悪役になった男」だが、
映画版は、「凡人ゆえに悪役になり、
凡人ゆえに素晴らしい音楽の手伝いまでしてしまう男」に、
より真実味を増しているんだよね。

舞台版は戯画化したもので、
映画版はよりリアルに迫ったもの、
さらに奥深く一段彫り込んだものになっているのが、
凄まじいと感じた。

書いた本人でなければ、
この深化は難しかったのではないかと感じる。

ていうか他人がこの改変をしたら、
失礼まである。
「私以上に私の作品を理解しているっ……」に、
なったのではないかなあ。

「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」で、
脚本監督した押井守は、
原作者高橋留美子に激怒されたそうだ。
まだ描かれてもいない、
原作の最終回を先にやってしまったからだ。
それくらい、映画が本質に迫ってしまったのだ。
他人にそれをやられたら怒るわな。


だけど、本人がさらにその深さにたどり着くには、
どれだけの苦労をしなければならないか、
考えただけで脳から血が出そうだ。

だけどピーターはやったのだ。
やりきったから、
映画版は燦然たる出来になっている。



舞台には、映画にない文法があり、
舞台版はそれを使いまくっている。
「サリエリが観客に向けて喋ること」である。
その間、周りにいる人は動きを止めて、
サリエリの語りが終わったらまた動き出す、
までト書きに指示がある。

「この時私はこうだったのだ、そしてその後これが起こったのだ」
などのように、観客に向けて全部を解説するのだね。
これは一人称形式ともいえるだろう。

映画でこれは不可能なので、
映画版では「神父への告白」という形で、
語りを重ねることに成功している。
サリエリの語りは、本編よりもむしろ豊かで、
これをナレーション処理するのは悪手だし、
映画にはないからといってごっそりカットするのは、
さらに悪手だ。

なので老サリエリが過去を回想する形で、
ちょいちょい挟み込んでいく、
という映画版の構成は、
映画の文法をもちいて舞台版を再構築する、
という点ではかなりの技巧だと感じる。


また、その神父との出会いの場面で、
老サリエリが「この曲を知っているかね?」
とピアノを弾き、神父が首をかしげ、
「私が作った曲なのだが」と残念がるのを2回やり、
「ではこれは?」と3曲目を弾き、
「ああ!知ってます!タンタラタンタラタンタラターン、
この曲もあなたが?」
「……私ではない」
という、とても短いシークエンスで、
サリエリの置かれた状況とその絶望感を示す、
見事なエピソードは、
映画版で新しく書かれた部分であった。

このたった1シーンで、
サリエリのことがほとんどセットアップされる、
素晴らしいシーンなのだが、
これを舞台版から新しくつくるのは、
相当大変だったと思う。


舞台版の構成は、映画版より単純である。
老サリエリが、
私がモーツァルトを暗殺したのだ、
と独白して、
若き頃に話を飛ばして、
時々観客に独白して解説して、
モーツァルトの死後、老サリエリに戻して、
私は不滅になりたいと自殺しようとして失敗、
で終わる。
名声はあるが凡人として終わるのみだ。


この、頭と尻の構造(クライマックスまでも!)をまるごと変えて、
間の独白を、神父への告解にした点が、
見事な構成計画だと思った。

これはリライトの、
ものすごい勉強になる。

実は本編そのものは大きく変わってないんよね。
頭と尻がメインの改造点になってるんよな。
これで本質をより深化させたことが、
映画版「アマデウス」の、
仕事の凄まじさだと思う。

映画はラストで決まる、という決定的な仕事をしたなあ。



映画版を作るに当たって、
当然モーツァルトのオペラのシーンは、
再現必須であったろう。
舞台版では音楽のみで表現される数々のオペラを、
劇中劇として華麗に再現する、
というのは映画版のガワとして、
最も魅力がある部分だ。

だが、ともすればそれに引っ張られて、
「アマデウス」はモーツァルトの華麗なる話、
と勘違いさせていることについては、
以前に議論した。


ほんとうはとても暗い話だ。
嫉妬の話なのだから。
そして才能のない男の話なのだから。

舞台版では、
「策略で追い詰めて、ついに決定的な何かはしなかった男」
として描かれているサリエリが、
映画版のクライマックスでは、
行動で本質を示していることに注意されたい。
やはり映画はアクションなのだね。
採譜する、あの病床でのシーンは、
サリエリという人間がどういう人間であったのかを、
最も表しているシーンだ。

あれによって、舞台版のただの凡人悪役が、
「究極の凡人」になったと僕は思う。
いい曲があったら夢中で手伝っちゃうんだからね。
笑っちゃうくらい凡人だ。
それで心が通じ合うまである。
モーツァルトの採譜ができるほどの実力は、
サリエリにしかなかったんだ。
努力で登ってきた男と、はるか先の才能。
それに直接触れられる喜び。
ああ、究極とはこういうことだ、
という新しい人間像を描き切ったと思ったな。


そうそう、
公開版映画にないが、ディレクターズカットにはある、
「サリエリが妻コンスタンツェの肉体を所望する」は、
舞台版でガッツリ描かれていた。
これをカットしろと指示した人は、
人間の暗部をわかってないし、
それは受けないと分かってるとも言える。
僕はある方が全く持ってよくわかると思う。

なお、
舞台版ではサリエリには妻がいることになっている。
映画版では妻も娶らず、とよりストイックに追い込んでるので、
モーツァルトとの友情がより尊く、
神との関係性がよりクリアになるね。
いい改変だ。

サリエリの生徒がモーツァルトに寝取られるが、
舞台版ではサリエリがその後寝取り返して愛人にまでしている。
寝取り返さず、妻コンスタンツェを襲う動機とした、
映画版の方が巧みだ。
わかりやすく復讐の動機が繋がっている。


あとは細かい修正や辻褄合わせといった感じ。

そうそう、大きな改編として、
舞台版には「風」役がいる。
場面場面の前に出てきて、
状況の変化を噂話の形で設定してくれる人だ。
舞台にはこういう人がいることが多い。
説明役として割り切ってるんだね。

映画版はそれがないため、
説明ゼリフは本編内でうまく処理するか、
老サリエリの説明に紛らせていたのだと思われる。


全体的な印象としては、
舞台版は、物語を「説明された」という気がして、
映画版は、物語を「体験した」という気がする。
地の文=独白がないことで、
説明が体験へと昇華したわけだ。


そうそう、説明ばかり聞いてると、
「いいわけはいいから、さっさとやれ」
と思ってしまうのは、僕が映画畑だからだろうか?

映画は「やる」で表現する、
アクションの連鎖なんだなあ、
ということがよくわかる、
舞台版と映画版の比較であった。

比較したい人はまだアマゾンにあるので、
戯曲を入手されたい。

ハヤカワ演劇文庫50「ピーター・シェーファー1 ピサロ/アマデウス」



映画は演劇から出発したものであるが、
独自の文法を得て、
全く異なるものとなった。
演劇の独白や噂話をする役は、
映画にはない。
その代わり映画にはクローズアップがあり、
音楽があり、シーンの切り替えやカットバックがある。

描く内容や本質が異なるのは当然だ。


いやー、しかしピーター、
こんな仕事やったら二度と立ち上がれないよなー、
と調べると、
これ以降2本しか書いてないっぽい。
魂を持ってかれたんだろう。

これは1人の人間になし得る、
最大の仕事のような気がする。
ぜひ両方比較されたい。
posted by おおおかとしひこ at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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