好きになる、まで行かなくても、情がわく。
その人と、表面的な関係性をつくるだけでは、
その人を本当に理解できるとは言い難い。
会社の部長や、取引相手や、
タクシーの運転手や、ラーメン屋の店員は、
ふつうそんな相手だ。
仕事をし、タクシーに乗り、ラーメンを食うだけで、
その人の本当の姿など知ることもない。
その人たちは、
本当の自分を隠してあなたと向き合っている。
それをわざわざ晒す理由がないからだ。
あなたもそうだろう。
全ての人に「私はこんな人間です!」
と言い回って理解を求めてたら、
都会では生きていけまい。
田舎村ならひょっとして上手くいくかも知れないが、
都会はいちいち本当の姿を晒してたら、
きりがないくらい人が多い。
あなたには社会的な、対面的な人格があり、
真の顔がある。
それは、その他の人全員そうなのだ。
ストーリーが始まった時点では、
すべての登場人物は、
とくに親しいと設定されていない限り、
外面をつくろって、内面を晒し合わない関係性として、
設定される。
それが物語の進行時に、
何かのきっかけがあり、
その人の本当の姿がちらりと見えるわけだ。
部長が普段しょうもない人間だとしても、
宇宙人に襲われたら身を挺して守り、
誰かを逃がすような人かもしれない。
タクシーの運転手が渋滞にハマったら、
急に悪口を言い出すかもしれない。
ラーメン屋はほかのラーメン屋に行った時、
真剣に反省するかもしれない。
その時に、その人に我々は情がわく。
この人も人間なんだと思うわけ。
必ずしも善人である必要はないが、
この人は善人なんだと思うと好きになりやすいとは思う。
でもダメな人、悪人だとわかったとしても、
そこに人間的な魅力があれば、
好きになったりするのが人間だ。
つまり、そうした瞬間に、
その人も人間だとわかればよい。
それは、あなたと同じだからだ。
あなたが外面と内面が異なるように生きているのと同様、
その人もそうだとわかると、
その人が人間に見えてくるのである。
ギャップをつくればつくるほど、
その落差が出るのは当然だ。
不良で嫌なやつだったが、
雨の中捨てられた子犬を拾うのを目撃したら、
表面的な理解が急に複合的になるから、
好きになるわけだ。
悪いと思わせて実は善人、
厳しいと思わせて実は優しい、
打算的と思わせて実は熱い。
こうしたギャップに、人は魅力を感じると思う。
それが、いかにさりげなく、
ふと現れるか、ということだ。
日常生活でそれを感じることはほとんどない。
日常の外面をかぶっている。
安定した世界ではそれが安パイである。
だから、非日常が必要なのだ。
非日常で何かをやらなければならなくなったときに、
その人の本当の姿が見えるのだ。
非日常にはなんでもある。
エレベーターが止まるだけでもよい。
借金で死にそうでもいい。
戦争が起こってもいい。
転校生が来るでもいい。
なぜ物語は非日常なのか?
その方がおもしろくてドキドキするから、
でもあるけれど、
もう一つ答えがあって、
その人の外面をはぎ、
本当の姿を見せるため、だといえる。
うちの部が急に戦国時代にタイムスリップしたら、
メンバーの本当の姿はすぐにわかると思う。
まあそうだろうな、という人と、
意外、という人が出ると思う。
そういうことだ。
誰かに協力したり、誰かを助ける人は、
その中でも好かれるだろう。
誰かを裏切ったり、嘘をつく人は、
嫌われるだろう。
それでも憎めない人だと分かれば、
好かれるかもしれない。
あなたは、そのディテールを考えて、
書くのである。
どのような非日常の事件なのか。
どういう状況で、
どんな外面の人が、どんな本当の姿を見せるのか。
そしてその人が好きになると、
ほかの人はどうするのか。
それが変化である。
変化は1回でもいいし、何回あってもいい。
登場人物だけでなく、観客も同様だ。
(役を演じてる俳優が、相手の俳優を好きになったりもするよね)
理解すればするほど好きになる場合もあるし、
理解すればするほど嫌いになる場合もある。
それを計算してつくっていくことだ。
ギャップをつくるのは、
「悪いやつが実は善人」のほうが簡単だ。
「正義の味方がよりよいとわかる」は難しい。
だからたいてい悪いやつが実はいいやつ、
のキャラで溢れてしまいがち。
ラブストーリーはこれが決定的に重要だが、
そうでない話でも、
「人間的に好きになる」は重要な要素である。
観客がそうなれば、
その映画は少なくとも心に残る。
それを一発で決めれるシーンがあったら、
そこは名場面と呼ばれるだろう。
2025年10月01日
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