2025年06月22日

これがフィルムだったら佳作に見えたかもね(「メガロポリス」評3)

デジタルの功罪。
ネタバレ無しでつづけます。


うんこみたいな出来の「メガロポリス」。
これ、ひょっとしたらフィルムだったら、
結構いい感じのSFに見えたんじゃね?
と想像した。

未来世紀ブラジルやマトリックスくらいには、
なんか哲学的に見えた、
考えさせられるレベルのものになってたのでは?と。

ところが現代はデジタルである。
何もかもが映ってしまう。


すっかり老人になったエイドリアン
(タリアシャイア、コッポラの実の妹?!
ずっと昔に聞いたのを久しぶりに見て、
びっくりした)
や、色んな人たちが、
コスプレをしてヘンテコなセットで、
演技ごっこをしてるようにしか見えなかった。

肉眼よりも解像度が高いカメラは、
隅々まで映してしまう。
なので、
演劇みたいに見えてしまうのよね。

つくりもののセットで、
つくりものの衣装で、
嘘の茶番劇をやっているようにね。


演劇がほんものに見える時は、
どんな時だろうか?
つくりものの衣装とセットと板の上でやってるのに、
それがほんものに見える時は、
どんな時だろうか?

人間の真実を語っている時だと思う。

架空の、つくりもののものであるが、
「そういうシチュエーションに陥ったら、
誰でもそう思い、行動するだろうこと」が、
ほんとうらしくあるから、
つくりものはその瞬間、
ほんものに見えるのだ。

「これはあくまで架空である」ガワをもつが、
「表していることは真実である」中身を持つのが、
フィクションの醍醐味ではないか?


それが、
デジタル撮影によって、
あらわになるようになった。

そういう中身をもってないものは、
全部嘘演劇に見えてしまうのね。


フィルム撮影の頃は、
全部映らなかったがために、
一部が闇に隠れていた。
だから我々観客は、
隠されているものを読み解こうとしてて、
それがリアルのように思えた。
現実は、全て理解できるものではないからだ。

実は映画の特質は、
フィルム撮影にあったのではないか、
と最近思うことがよくある。
全部映らないからこそ、
闇の向こう側を想像させる力が、
フィルムの良さだったのでは?と。

この映画も、
フィルム撮影だったら、
いろんなアラが隠れて、
一部しか映らず、
想像させる出来になってたかもしれない。

そういうのを分かってる現代の監督は、
絵の中に影や闇をつくることを、
考え始めていると思う。
全部を映したらパンモロになってしまう。
パンチラにすべきであると。

そんなところまでコッポラは考えなかったのだろう。
だから全部がおっぴろげになり、
子供のような芝居がバレてしまったのだと思う。


もちろん、
その子供のようなガワで、
陳腐なものだとしても、
描こうとしている本質が、
リアルであり価値があるならば、
名作として認められる。
ドラマ風魔はまさにそれである。

だけど、
中身がなんにもない陳腐なので、
陳腐がバレバレになってしまった、
というのがメガロポリスだと思う。

未来世紀ブラジルも、
デジタル撮影だったらこんなにカルトとして残らなかっただろう。
陳腐がバレバレになってしまった可能性が高い。

マトリックス(1に限定するが)は、
フィルム作品であるが、
デジタル撮影でも中身があるので面白かったと思うよ。


フィルムはシナリオの七難を隠していたのだ、
と今なら思える。
そのベールを失った現代の映画は、
よほどでないと観客に刺さらないと思う。
posted by おおおかとしひこ at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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