2025年10月03日

表現とは発見のことである

といえるかもしれない。


先日の仲のいいスタッフとの飲みで、
都営電車をロバートキャパの集団、
マグナムの写真家が撮ってるシリーズ広告があると聞いた。

僕は都営なんて滅多に乗らないので、
そんなシリーズを知ることがなかった。
「都営 マグナム 写真」で画像検索すれば色々出てくる。
たとえばこんな写真たち。
https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/project-toei/photo/008/


表現とはなにか?
苦労して新しいことをすることだ。
既存の材料をどうにかして組み合わせて、
全く新しいものを産むことである。
一種の発明でもあると思っている。

で、
それが表現として成立してるかしてないか、
を判断する、唯一の指針があるとすると、
「発見があるか」じゃないかと思った。

手袋が丁寧に干してある。
裏はこんななってんだ。
夜のバスターミナル、不気味だけど美しい。

こんなふうな、
「まだ見たこともないものの発見」
「日本人の丁寧な部分の発見」が、
この写真たちを支えていると思った。


つまり、
何も発見してないものは、
表現にならないのだと。

凡庸なものを凡庸に描いても、
表現ではない。
凡庸な中に新しさを発見したら、
それが表現になる。



人気芸能人がそのまま出てても、
発見にはならない。
そういう人だと思ってたら、
その人の中にそんなものがあると発見するのが、
表現に至ると思う。

「冷たい熱帯魚」のでんでんの怪演は、
ひとつの発見であった。
映画自体は大した事ないが、
序盤のでんでんの怪演は歴史に残して良い。

恋もそうだよね。
この人の中にこんな要素があるんだ、
という発見がその人の魅力になったりする。


昔、とある女優さんと初めて会った時に、
「どんな芝居が得意ですか?」と聞いた時、
「それは発見してください。ふふふ」
と言われて「知らんがな」って思ったことがある。

その人は普段から同じことをやらされて、
飽き飽きしてたんじゃないか、
新しい面を掘り出してくれる監督待ちだったのではないか、
と今なら思えるようになった。

いや、初対面で発見もくそもないやろ、やっぱ。笑
何回か会ってるならあれだけど。


つまりこれである。

まずこういうものだ、
という偏見や先入観がある。
それを発見で崩すのが表現である。

まずこういうものだ、が、
無前提であればよい(たとえば都営の広告は、
見慣れた電車やバスに乗っているという前提があるから、
前提を語る必要はない)が、
そうではない場合、
これはこういうものである、と前提を語ってから、
あらためてそうではないものを発見すれば良い。


つまりやることは2つある。

よく知ってるものを描くことと、
そこに新しい発見を描くことだ。

つまり表現とは、常に小さなどんでん返しをしているわけだ。
私たちのそうだと思ってる確固たる世界の、
足元からひっくり返されると、
私たちはたのしいのだ。

つまり表現に触れるということは、
ひっくり返されるために行ってるのだ。
相撲だよ。鮮やかな投げを食らいたいのだ。
posted by おおおかとしひこ at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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