2025年06月23日

自分を書いてはいけない(「メガロポリス」評4)

口酸っぱくこのことをここで書いているような気がする。
この糞映画も、この禁忌を犯していた。

以下ネタバレで。


中二的全能感がある。
時を止める男。
都市を計画する万能な男。
いい女が惚れる男。

これは明らかに自分の投影だ。
もしこれがそうでなければ、
「時を止める力を使って、いろんなことをする」
が中盤になるはずだからだ。
ビルの屋上に行って、
時を止めれる程度の気軽さならば、
いついかなる時も止めれるはずで、
それを利用すればなんでも出来るはず。

偽スキャンダルをオンエアされたときに、
時を止めて放送室にいき、USBメモリを発見することすらできたはずだ。
そんなことを一切してなくて、
女に振られそうになったときだけ不能になり、
女にヨシヨシされてまた復活した、
勃起としての能力しか表現していなかった。

これは、三人称的な主人公ではなく、
明らかに私小説のスタイルだ。
これは映画的な三人称ではない。
だから間違った脚本である。

妻が死んでいて、
そのトラウマに苦しめられている、
というのも何にも使っていないよね。
それを解消することが成長なのだ、
というのにもなっていなかった。
スラム街の屋敷に、
彼女がベッドに寝ているのを幻視しているが、
二度とそこへ行くことはなかったとか、
そういうことも描かれていない。
(あのスラム街で、巨像が倒れるのは何を表現していたんだ?
文明の終わりとか、そういうこと? まあ本題と関係ないのだが)


全部、
「俺はかっこいい」といいたいだけの、
何かでしかなかった。

これがだめだと気付けるのは、
「自分を書いていないとき」だけだと思う。
あれ? こんなキャラ変じゃね?
と気づけるのは、
他人だからだ。


奥さん死んだ人は、
そのトラウマに苦しめられているとして、
ずっと苦しんだままストーリーが終わるんだっけ、
それとも克服するんだっけ、
克服するとしたら、どのような状況で、
どのように示すんだっけ、とか。

時トメ能力があるキャラは、
いつどうやってそれを活用するんだっけ、
見せ場はどうする? などのようにだ。
それがなくなるのは自信がなくなったときだ、
それが復活するのは、復活したときだ、
その能力を使って、何をしよう? などのようにだ。

それを一切不問だったのは、
他人というキャラクターになっていないのだろう。


ラスト、妻に捧ぐとあった。
コッポラの奥さんが死んだらしい。
その悲しみが映画に反映したのはわかる。
でもそれだけでしょ?
それが物語として面白くなっていないなら、
カットするのがプロというものだ。
お前の悲しみはどっちでもいいよ、
それが作品にプラスになっていないならば、
カットでいいでしょ。

俺の映画でそうなってたら、
「知らんがな」っていうでしょ? 
そういうものだよ、他人というのは。


自分を書くと、
そういう客観性を失うのよね。
だから、やってはいけない。

全能系主人公だと、
ついついやってしまうのよね。
だから弱点をつくっておけ、
というのもセオリーなんだけど、
その弱点すら自分だったので、
克服できなかったのよね。


結局主人公は何もせず、
単に赤ちゃんが生まれたからハッピーエンド、
って何それ。

都市を設計したからといって、
それがよさげに見えないんだよな。
演説もなんだかよくわからなかった。

コッポラは本気で都市を考えたのか?
都市をどう見たんだ?
ローマっぽいから好き、でしかないのか?
ごみ処理問題とか、スラムをどう考えていたんだ?
それを隠蔽することが、都市なのか?
都市を描いた物語に見せておいて、
なにひとつ描いていないじゃないか。
自分を描いてオナニーしていただけさ。

自腹180億のオナニー、
なかなかスケールがでかくていいけどさ。
それを金取れるものにするのが、
プロだろうが。


以後、時を止める系の主人公で、
何もできないやつは、
全部メガロポリス呼ばわりされるに違いない。


(追記)
撮影現場で監督がマリファナを吸うのをずっと待っている時間とかあったんだってさ。
ろくな映画できないわ。
posted by おおおかとしひこ at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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