qwertyに固執する理由として、
「他で使えないと不便だから」がある。
でも僕は、qwertyを使うことが不便だと思う。
配列を変えたら便利になるが、
他で使うときにはqwerty併用のときもあるし、
OSアプデで使えなくなる不便さもある。
どっちにしても不便なんだから、
どの不便を受け入れるかだ。
配列そのものの不便。
指の運指が不自然で、
指の使用頻度が不自然に偏り、
腱鞘炎を併発し、
母国語を書くのに不自然なリズムと指の動きを強制される。
ものを書くのに自然ではなく、
自然な文を書くためには、
指に錘をたくさんつけてやらなければならない。
スラスラと、思うことが湯水のように湧きいでて、
それを記録していくための動線ではない。
つまり、日本語を書くことに不自由する不便。
僕はこれが決定的だと思う。
こんな不自然な道具で書いたら、
言葉も不自然になるし、
思考も不自然になる。
つまりアウトプットの質に直接影響がある。
もしあなたの文章には大して影響がない、
と思ってるのだとしたら、
あなたの文章に価値がなく、
たいした文章じゃないからかもしれない。
まともに文章を書き、
真正面から何かを論じようと思ったら、
こんな不自然な道具で論じれるわけがない。
手書きのほうがよっぽど論旨が通り、
的確な語の選択ができるというものだ。
だから僕は日本語を書くのに自然な指使いが出来、
疲れず、文がよれにくい、
薙刀式をつくったのだ。
新配列を使う不便は、
よそで使えないからqwertyを使うとか、
自分以外の環境の話だ。
これは、
「自分の環境で正しく楽にまともな文を書き、
よその環境では適当な文を書く生活をする」
選択をしていることに他ならない。
よそでは借りてきた猫になるが、
家に帰れば虎になるわけだ。
その猫かぶりの不便だけだ。
どちらの人生を選ぶかね?
僕は、新配列を取った。
よそでの不便など、
「自分の思い通りの文章が書けない苦痛」
に比べれば、100万分の1の苦痛だ。
どちらの不便と生きていくか?
あなたはキーボードで何をしたいのか?
それを考えたうえで、
不便を選択するしかない。
どちらの不便を選んでもいい。
僕は、qwertyに二度と触りたくない。
2025年06月27日
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