2025年10月06日

なぜギャップは魅力的なのか

人間は、他人を「ひとつ」で捉えようとするから。


というか、名詞というものが、
そもそもそういうものである。

なにか一つの単位のものがある。
それに名詞という名前を与える。

名詞は一つの概念を指す。
「机」なら平たい台と足があり、
上で書物をしたり食事をしたりするもので、
椅子がついてくることが多い、
などのような、
定義のようなものと名詞がくっつく。

で、いちいち定義を話してたら冗長なので、
それが机という名詞に圧縮されるわけだ。

つまり、
人は名詞という概念を発明することで、
圧縮した会話をできるようになった。

そのへんの平易な語でもそうだし、
専門用語ではさらにだ。
ターニングポイントや焦点という言葉を使わずに、
いちいちその話をしていたら、
まだるっこくて話が進まない。

つまり、名詞とは圧縮することで、
いろんな具体を捨象しているともいえる。
ある抽象的ななにかを、
名詞として抽出したわけだ。


これが、人にもいえる。

A君という名前でA君の概念を認識、圧縮するわけだ。
よく笑う子だとしよう。
A君を知らない人に、
A君ってどんな子?と聞かれた時に、
「よく笑う子だよ」と説明してあげることになる。

もしその特質が、
その場にいる誰よりも強く、
誰もそれを持ってない時、
「キャラが立っている」という。
心配症が多く、すぐ落ち込むクラスにA君がいれば、
とてもキャラの立っている子に見えるだろう。

立っているとは目立っているということで、
目立っているとは突出していることだ。
そしてほかに追随されないということだ。


で、だから、
A君=よく笑う子、という、
一概念一意味になる。

机=平台と足、
という一概年の抽象で一意味になってることと同じだ。

我々はこのようにして世界を圧縮している。

世界はたくさんのものに溢れているので、
A君はA君、机は机、自転車は自転車、愛は愛、
資本主義は資本主義、
などのように、世界を分類して整理している。

概念が増えること(学習、概念の発明)は、
世界の分類がより細かくなること(解像度があがること)で、
概念が減ること(忘れる、死語になる)は、
世界がより簡単に、曖昧になることだ。

もちろん、親しくしていくうちに、
A君はオムライスが好きとか、
A君は長袖が嫌いとか、
A君は日向ぼっこが好きとか、
いろんな特徴がわかってくる。

でもそれは大体A君の概念=よく笑う子、
に紐付けて記憶される。
そこから関連付けられそうな特徴だけを記憶する、
という選択的記憶の可能性もある。


で。


人間は一面的でないことは、
自分を見ればわかる。

だけど、他人は一面しか見ずに、
A君=よく笑う子と、一面的定義をしている。
なぜかというと、外界は複雑で、
一名詞一意味を崩してたら、世界を圧縮できないからだ。


さて。

ここに、A君の「よく笑う子」以外の、
ギャップを見つけたとしよう。
あんなになんでも笑う子なのに、
ある時だけ一言も笑わずに怒ったとしよう。

たとえば、「親友を馬鹿にされたとき」だとする。

冗談やシャレが好きなA君が、
その時だけはシャレにならないと思うとしよう。

これは、A君の定義に二面性が加わるということだ。

一名詞一意味といった外界の認識が崩れて、
急に「私のようだ」=多面性がある、
と思うようになるわけ。

つまり、二面性〜n面性を持つと、
一面性だけで理解している外界とは「異なり」、
「特別な、私に近い複雑なもの」として、
認識されるようになるわけだ。

A君は「ただ単に笑う子」ではなく、
もっと複雑で深い。
そう感じる瞬間に、深み、魅力を感じるのだ。

つまり、
背景から、そこだけ浮き出てくる。
その浮き出るさまが、魅力だというわけ。


ベタな例で、
不良でやなやつだと思ってたのに、
空き地で子猫を拾うのを見てキュンとなる、
というやつを考えよう。

この場合、不良は遠ざけるべき敵だ。
ところがギャップは、味方の持つ要素だ。
敵と味方というギャップが大きいから、
この二面性に深さ=魅力を感じるのだ。

微差であれば、
ギャップとはいわない。
足が5本ある机があっても、
それは机の範疇であって、ギャップのある机とはいわない。

実はこの机には生命が宿っていて、
彫って落書きすると叫び声を上げて血を流すのだ、
となると、
物体という認識と、生命という認識の、
ギャップをつくることができる。

この瞬間、この机はただの机ではなく、
特別な机になる。

この、背景世界=一概念一意味から、
浮き上がってくる瞬間に、
我々は魅力を感じるのではないか、
という仮説だ。


傷つき血を流す呪いの机。
よく笑う子なんだけど、親友を馬鹿にされたときだけマジになるA君。
不良なのに猫は拾うアイツ。

どれも、
最初の概念と相反する要素を持っているので、
ギャップがあり、
ひとつの概念で表せない、複雑な存在になる。

Xという概念にPという名詞を対応させるだけではないもの。
それは、私に近いものになる。
だから、魅力があるのではないかな。



好きな人をますます好きになるのは、
よく知っているつもりのこの人の中に、
また別の顔を見つけた時だ。
それが良い感じならもっと好きになるし、
悪い感じなら「隠してた正体」がバレて嫌いになる。
そしてそれは、
Xという「その人はこういう人」という、
先入観が壊れる時であろう。


つまり、
ギャップの魅力をつくるには、
三段階必要だ。

1. まずXという性質だとその人Pを描き、
 第一印象を作ること。その後もPといえばXを追加印象づけしておく。
2. Xとなるべく遠い、ギャップのある本質Yを創作する。
3. 実はPは、XだけでなくYの面もあるのだ、
 を表す印象的なエピソードをつくる。

これが全部うまく行ったら、
Pはみんな好きになるだろうね。

(あるいは悪役なら、クズエピソードで、
さらに嫌いになるようにするだろう。
これを応用して、
悪役→実は悪くなくて誤解されてるのでは→やっぱ真のクズだこいつ、
などのように振り回していくこともできるだろう)



魅力のあるキャラは、
ギャップがあるキャラだ。

それは、一つの説明で説明し切れない、
沢山の特徴(ときに矛盾したり真逆である)を、
持っているということ。
そしてそれが、私という「人間そのもの」の特徴に近いから、
単純な世界という背景から分離して、好きになるのではないだろうか。

矛盾のあるキャラをつくるのは面白いものだ。
それをうまく、前フリしてひっくり返す場面をつくりたいものだね。
posted by おおおかとしひこ at 08:06| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつも勉強させていただいております。

これは「悪→実は善」タイプのギャップ萌えだと思うのですが、例えば「悪から善に変化する」場合は、どうお考えですか?
前者は“パキッとしたデジタル的二面性の対比”ですが、後者はシームレスな二面性(?)への変化のようにも感じます。
徐々に善玉に変化していくのでしょうから(まあいきなり改心するパターンもありますが……)。

「悪から善に変化する」場合もやはり

>1. まずXという性質だとその人Pを描き、
> 第一印象を作ること。その後もPといえばXを追加印象づけしておく。
>2. Xとなるべく遠い、ギャップのある本質Yを創作する。
>3. 実はPは、XだけでなくYの面もあるのだ、
> を表す印象的なエピソードをつくる。

という、ギャップをねらっていくもの、と風に考えていいのでしょうか?
似て非なるもののような気もするような?

もしよろしければ、お考えをお聞かせいただけますと幸いです。
Posted by ふじ at 2025年10月11日 13:41
>ふじさん

同じだと思います。

鬼の目にも涙ということなので、
そもそも鬼に善性がないと、
改心できないでしょうが。
Posted by おおおかとしひこ at 2025年10月11日 16:46
やはり同じですか。
ご教授ありがとうございます!
Posted by ふじ at 2025年10月11日 18:53
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