人間は、他人を「ひとつ」で捉えようとするから。
というか、名詞というものが、
そもそもそういうものである。
なにか一つの単位のものがある。
それに名詞という名前を与える。
名詞は一つの概念を指す。
「机」なら平たい台と足があり、
上で書物をしたり食事をしたりするもので、
椅子がついてくることが多い、
などのような、
定義のようなものと名詞がくっつく。
で、いちいち定義を話してたら冗長なので、
それが机という名詞に圧縮されるわけだ。
つまり、
人は名詞という概念を発明することで、
圧縮した会話をできるようになった。
そのへんの平易な語でもそうだし、
専門用語ではさらにだ。
ターニングポイントや焦点という言葉を使わずに、
いちいちその話をしていたら、
まだるっこくて話が進まない。
つまり、名詞とは圧縮することで、
いろんな具体を捨象しているともいえる。
ある抽象的ななにかを、
名詞として抽出したわけだ。
これが、人にもいえる。
A君という名前でA君の概念を認識、圧縮するわけだ。
よく笑う子だとしよう。
A君を知らない人に、
A君ってどんな子?と聞かれた時に、
「よく笑う子だよ」と説明してあげることになる。
もしその特質が、
その場にいる誰よりも強く、
誰もそれを持ってない時、
「キャラが立っている」という。
心配症が多く、すぐ落ち込むクラスにA君がいれば、
とてもキャラの立っている子に見えるだろう。
立っているとは目立っているということで、
目立っているとは突出していることだ。
そしてほかに追随されないということだ。
で、だから、
A君=よく笑う子、という、
一概念一意味になる。
机=平台と足、
という一概年の抽象で一意味になってることと同じだ。
我々はこのようにして世界を圧縮している。
世界はたくさんのものに溢れているので、
A君はA君、机は机、自転車は自転車、愛は愛、
資本主義は資本主義、
などのように、世界を分類して整理している。
概念が増えること(学習、概念の発明)は、
世界の分類がより細かくなること(解像度があがること)で、
概念が減ること(忘れる、死語になる)は、
世界がより簡単に、曖昧になることだ。
もちろん、親しくしていくうちに、
A君はオムライスが好きとか、
A君は長袖が嫌いとか、
A君は日向ぼっこが好きとか、
いろんな特徴がわかってくる。
でもそれは大体A君の概念=よく笑う子、
に紐付けて記憶される。
そこから関連付けられそうな特徴だけを記憶する、
という選択的記憶の可能性もある。
で。
人間は一面的でないことは、
自分を見ればわかる。
だけど、他人は一面しか見ずに、
A君=よく笑う子と、一面的定義をしている。
なぜかというと、外界は複雑で、
一名詞一意味を崩してたら、世界を圧縮できないからだ。
さて。
ここに、A君の「よく笑う子」以外の、
ギャップを見つけたとしよう。
あんなになんでも笑う子なのに、
ある時だけ一言も笑わずに怒ったとしよう。
たとえば、「親友を馬鹿にされたとき」だとする。
冗談やシャレが好きなA君が、
その時だけはシャレにならないと思うとしよう。
これは、A君の定義に二面性が加わるということだ。
一名詞一意味といった外界の認識が崩れて、
急に「私のようだ」=多面性がある、
と思うようになるわけ。
つまり、二面性〜n面性を持つと、
一面性だけで理解している外界とは「異なり」、
「特別な、私に近い複雑なもの」として、
認識されるようになるわけだ。
A君は「ただ単に笑う子」ではなく、
もっと複雑で深い。
そう感じる瞬間に、深み、魅力を感じるのだ。
つまり、
背景から、そこだけ浮き出てくる。
その浮き出るさまが、魅力だというわけ。
ベタな例で、
不良でやなやつだと思ってたのに、
空き地で子猫を拾うのを見てキュンとなる、
というやつを考えよう。
この場合、不良は遠ざけるべき敵だ。
ところがギャップは、味方の持つ要素だ。
敵と味方というギャップが大きいから、
この二面性に深さ=魅力を感じるのだ。
微差であれば、
ギャップとはいわない。
足が5本ある机があっても、
それは机の範疇であって、ギャップのある机とはいわない。
実はこの机には生命が宿っていて、
彫って落書きすると叫び声を上げて血を流すのだ、
となると、
物体という認識と、生命という認識の、
ギャップをつくることができる。
この瞬間、この机はただの机ではなく、
特別な机になる。
この、背景世界=一概念一意味から、
浮き上がってくる瞬間に、
我々は魅力を感じるのではないか、
という仮説だ。
傷つき血を流す呪いの机。
よく笑う子なんだけど、親友を馬鹿にされたときだけマジになるA君。
不良なのに猫は拾うアイツ。
どれも、
最初の概念と相反する要素を持っているので、
ギャップがあり、
ひとつの概念で表せない、複雑な存在になる。
Xという概念にPという名詞を対応させるだけではないもの。
それは、私に近いものになる。
だから、魅力があるのではないかな。
好きな人をますます好きになるのは、
よく知っているつもりのこの人の中に、
また別の顔を見つけた時だ。
それが良い感じならもっと好きになるし、
悪い感じなら「隠してた正体」がバレて嫌いになる。
そしてそれは、
Xという「その人はこういう人」という、
先入観が壊れる時であろう。
つまり、
ギャップの魅力をつくるには、
三段階必要だ。
1. まずXという性質だとその人Pを描き、
第一印象を作ること。その後もPといえばXを追加印象づけしておく。
2. Xとなるべく遠い、ギャップのある本質Yを創作する。
3. 実はPは、XだけでなくYの面もあるのだ、
を表す印象的なエピソードをつくる。
これが全部うまく行ったら、
Pはみんな好きになるだろうね。
(あるいは悪役なら、クズエピソードで、
さらに嫌いになるようにするだろう。
これを応用して、
悪役→実は悪くなくて誤解されてるのでは→やっぱ真のクズだこいつ、
などのように振り回していくこともできるだろう)
魅力のあるキャラは、
ギャップがあるキャラだ。
それは、一つの説明で説明し切れない、
沢山の特徴(ときに矛盾したり真逆である)を、
持っているということ。
そしてそれが、私という「人間そのもの」の特徴に近いから、
単純な世界という背景から分離して、好きになるのではないだろうか。
矛盾のあるキャラをつくるのは面白いものだ。
それをうまく、前フリしてひっくり返す場面をつくりたいものだね。
2025年10月06日
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これは「悪→実は善」タイプのギャップ萌えだと思うのですが、例えば「悪から善に変化する」場合は、どうお考えですか?
前者は“パキッとしたデジタル的二面性の対比”ですが、後者はシームレスな二面性(?)への変化のようにも感じます。
徐々に善玉に変化していくのでしょうから(まあいきなり改心するパターンもありますが……)。
「悪から善に変化する」場合もやはり
>1. まずXという性質だとその人Pを描き、
> 第一印象を作ること。その後もPといえばXを追加印象づけしておく。
>2. Xとなるべく遠い、ギャップのある本質Yを創作する。
>3. 実はPは、XだけでなくYの面もあるのだ、
> を表す印象的なエピソードをつくる。
という、ギャップをねらっていくもの、と風に考えていいのでしょうか?
似て非なるもののような気もするような?
もしよろしければ、お考えをお聞かせいただけますと幸いです。
同じだと思います。
鬼の目にも涙ということなので、
そもそも鬼に善性がないと、
改心できないでしょうが。
ご教授ありがとうございます!