ドラマと映画の違いはなにか?
というのはよく問題になる。
尺が違う、毎週習慣的になるのと一気見の違い、
などはすぐにわかるけど、
脚本論的な議論はあまり書かれてない。
語るのがドラマで見せるのが映画、
なんてたまに言われるけどピンと来ない。
で、「恋はデジャブ」を見て、
群像劇と主人公中心と分けると、
わかりやすいのではと感じた。(ネタバレ無しでつづけます)
人は群れで暮らしている。
何か事件が起きた時に、
1人だけが関わるということはほぼない。
最初はそうだったとしても、
いずれ露見し、問題が共有されるという事態になるものだ。
だから遅かれ早かれ、
物語は群像劇になる。
人はそれぞれ抱えてる事情や目的がことなるため、
同じ目的を共有して同じ関わり方になることはない。
日本人のような同質性の強い民族でも、
性格や得意不得意によってチーム内の役割が決まってくるものだ。
で、そこに凸凹があったほうが、
話が面白くなる(コンフリクトが増える)ため、
群像劇にすることが、
物語の基本である。
さて、
そのコンフリクトを複雑に、
多岐に渡るようにすると、解決するまで時間がかかる。
すべての問題をうまく解決しないと面白くないので、
そのタペストリーを編む難易度はあがるからだ。
なので、
物語の長さとは、すなわちその複雑度に比例するといえる。
ドラマは長い。
だから複雑である。
群像劇として複雑さを描ける。
逆に主人公だけにスポットを当てても、
スカスカで持たないだろう。
AとBはどうなるの?
CとDの行方は?
EとFは仲違いしたままなの?仲直りするの?
なんて、複数の焦点が、
ドラマには常にあると思う。
これがゆえに、
「一つのドラマが一つのイコンをもつ」ことが難しくなる。
メインコンフリクト、メインプロットライン、
というのがわかりにくくなり、
「この群像劇」というイコンになりがち。
「寺内貫太郎一家」「ここは78分署」
「ホテル」「女王の教室」「3年B組金八先生」
みたいな、ある場所を中心としたドラマは、
その場所をイコンに持ちやすい。
だがそうでないものは、
ブロッコリーがイコンになりがちだね。
一方、映画は短い。
2時間は長いが、
ドラマに比べれば何分の一レベルだ。
だからドラマに比べて群像劇要素が大幅に減る。
メインの焦点とサブの焦点にわかれて、
メインプロットとサブプロットに役割分担がある。
ドラマのセンタークエスチョンは、
ずーっと気にしてることというよりは、
なんとなくの大枠でしかない。
映画のセンタークエスチョンはドラマよりも逼迫して、
常に気にして、感情移入している必要がある。
宇宙人に支配された地球を解放する物語を、
ドラマで描くと、
宇宙人支配や地球解放にそこまで感情移入しなくてもいいし、
喫緊性を感じなくてもOKだ。
それよりも、各自のキャラクターへの感情移入が勝ると思う。
これを映画で描くと、
宇宙人に親しい人を殺されるとか、
より直接感情移入に訴えかけて、
地球解放という目的に、
観客を前のめりにする必要がある。
メインプロットの重みが全然違うわけだ。
で、
そのメインプロットを動かす主人公が、
映画ではドラマよりももっと立ってくるべきだ、
という話が本題だ。
立たせてもいいし、周りを引き算してもいい。
どっちでもいいんだけど、
映画ではドラマほどサブプロットを描けない。
群像劇といえば群像劇だとしても、
中心が誰か、その人が何をするのかが重要ということだ。
「恋はデジャブ」という映画は、
めずらしく主人公にしかフォーカスしてない、
1人映画だともいえる。
ループする世界では明日になったら今日のことはリセットされるので、
主人公だけが連続した意識を持っている、
恐ろしく孤独な世界だからだ。
これくらい極端な例は稀だが、
これくらい極端にしても成立するのが、
映画という世界だ。
主人公の行動に困ったからといって、
サブプロットに逃げることはよくあることだ。
群像劇、チーム劇として仕上げて、
まあ大事な場面だけ主人公を立てたろ、
というのはよくあることだ。
でもそれじゃあドラマにすぎず、
映画に必要な、「立ってる主人公」にならなくね?
ということなのだ。
長い物語、小説や漫画の映画化では、
ここで失敗する。
長い物語は、複雑な群像劇だからだ。
これを等しいバランスで2時間に縮めると、
どれも浅くて食い足りないものになる。
やるべきことは、主人公に全部集約することだ。
それができないと、主人公が薄くて、
物足りないものになるだろう。
小説「DIVE!!」という飛び込みを題材にした小説は大変面白かった。
群像劇だったからね。
でもそれを映画化した時に、全部を等しく抜いてて、
主人公が相対的に弱く見えたのよね。
だから全然面白くなかったな。
3人の主人公の話なのだが、
BやCのエピソードすらAに翻案するべきだったのでは?
と今なら思える。
あるいは、原作にはない、オリジナルな強いエピソードで、
メインプロットを引っ張るべきだったと、
今では思う。
このPに試写でドヤ顔で見せられたのだが、
「小説の方が面白かった」と正直に答えたら、
意外な顔してたっけかな。
気づいてなかったのかよ、シナリオ的欠陥に。
ということで、
1人の物語ってどういうこと?と疑問に思ったり、
そのディテールを研究したかったら、
「恋はデジャブ」を見ることをおすすめする。
そこに出てくる人物は全員端役で、
ヒロインすらも端役に近く描かれている。
その縮小によって、
主人公への感情移入が猛烈に上手くいっている作品だ。
全部こうしろというのは難易度が高すぎるので、
(下手なモノローグや自分語りを入れた、
下手なシナリオにすぐなっちゃうだろう)
あくまでも、
こういう背骨が映画の背骨だと、
理解するために見てほしい。
このうえで、
群像劇を組むならやればよい。
メインの背骨ができてないのにやると、
ぐずぐずになるのがよくわかるだろう。
2025年07月01日
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