2025年07月01日

ドラマは群像劇、映画は1人中心

ドラマと映画の違いはなにか?
というのはよく問題になる。

尺が違う、毎週習慣的になるのと一気見の違い、
などはすぐにわかるけど、
脚本論的な議論はあまり書かれてない。

語るのがドラマで見せるのが映画、
なんてたまに言われるけどピンと来ない。

で、「恋はデジャブ」を見て、
群像劇と主人公中心と分けると、
わかりやすいのではと感じた。(ネタバレ無しでつづけます)


人は群れで暮らしている。

何か事件が起きた時に、
1人だけが関わるということはほぼない。
最初はそうだったとしても、
いずれ露見し、問題が共有されるという事態になるものだ。

だから遅かれ早かれ、
物語は群像劇になる。

人はそれぞれ抱えてる事情や目的がことなるため、
同じ目的を共有して同じ関わり方になることはない。
日本人のような同質性の強い民族でも、
性格や得意不得意によってチーム内の役割が決まってくるものだ。

で、そこに凸凹があったほうが、
話が面白くなる(コンフリクトが増える)ため、
群像劇にすることが、
物語の基本である。

さて、
そのコンフリクトを複雑に、
多岐に渡るようにすると、解決するまで時間がかかる。
すべての問題をうまく解決しないと面白くないので、
そのタペストリーを編む難易度はあがるからだ。

なので、
物語の長さとは、すなわちその複雑度に比例するといえる。


ドラマは長い。
だから複雑である。
群像劇として複雑さを描ける。
逆に主人公だけにスポットを当てても、
スカスカで持たないだろう。

AとBはどうなるの?
CとDの行方は?
EとFは仲違いしたままなの?仲直りするの?
なんて、複数の焦点が、
ドラマには常にあると思う。

これがゆえに、
「一つのドラマが一つのイコンをもつ」ことが難しくなる。
メインコンフリクト、メインプロットライン、
というのがわかりにくくなり、
「この群像劇」というイコンになりがち。

「寺内貫太郎一家」「ここは78分署」
「ホテル」「女王の教室」「3年B組金八先生」
みたいな、ある場所を中心としたドラマは、
その場所をイコンに持ちやすい。
だがそうでないものは、
ブロッコリーがイコンになりがちだね。


一方、映画は短い。
2時間は長いが、
ドラマに比べれば何分の一レベルだ。
だからドラマに比べて群像劇要素が大幅に減る。

メインの焦点とサブの焦点にわかれて、
メインプロットとサブプロットに役割分担がある。
ドラマのセンタークエスチョンは、
ずーっと気にしてることというよりは、
なんとなくの大枠でしかない。
映画のセンタークエスチョンはドラマよりも逼迫して、
常に気にして、感情移入している必要がある。

宇宙人に支配された地球を解放する物語を、
ドラマで描くと、
宇宙人支配や地球解放にそこまで感情移入しなくてもいいし、
喫緊性を感じなくてもOKだ。
それよりも、各自のキャラクターへの感情移入が勝ると思う。

これを映画で描くと、
宇宙人に親しい人を殺されるとか、
より直接感情移入に訴えかけて、
地球解放という目的に、
観客を前のめりにする必要がある。

メインプロットの重みが全然違うわけだ。


で、
そのメインプロットを動かす主人公が、
映画ではドラマよりももっと立ってくるべきだ、
という話が本題だ。

立たせてもいいし、周りを引き算してもいい。
どっちでもいいんだけど、
映画ではドラマほどサブプロットを描けない。
群像劇といえば群像劇だとしても、
中心が誰か、その人が何をするのかが重要ということだ。

「恋はデジャブ」という映画は、
めずらしく主人公にしかフォーカスしてない、
1人映画だともいえる。
ループする世界では明日になったら今日のことはリセットされるので、
主人公だけが連続した意識を持っている、
恐ろしく孤独な世界だからだ。

これくらい極端な例は稀だが、
これくらい極端にしても成立するのが、
映画という世界だ。


主人公の行動に困ったからといって、
サブプロットに逃げることはよくあることだ。
群像劇、チーム劇として仕上げて、
まあ大事な場面だけ主人公を立てたろ、
というのはよくあることだ。
でもそれじゃあドラマにすぎず、
映画に必要な、「立ってる主人公」にならなくね?
ということなのだ。


長い物語、小説や漫画の映画化では、
ここで失敗する。
長い物語は、複雑な群像劇だからだ。
これを等しいバランスで2時間に縮めると、
どれも浅くて食い足りないものになる。

やるべきことは、主人公に全部集約することだ。
それができないと、主人公が薄くて、
物足りないものになるだろう。
小説「DIVE!!」という飛び込みを題材にした小説は大変面白かった。
群像劇だったからね。
でもそれを映画化した時に、全部を等しく抜いてて、
主人公が相対的に弱く見えたのよね。
だから全然面白くなかったな。

3人の主人公の話なのだが、
BやCのエピソードすらAに翻案するべきだったのでは?
と今なら思える。
あるいは、原作にはない、オリジナルな強いエピソードで、
メインプロットを引っ張るべきだったと、
今では思う。

このPに試写でドヤ顔で見せられたのだが、
「小説の方が面白かった」と正直に答えたら、
意外な顔してたっけかな。
気づいてなかったのかよ、シナリオ的欠陥に。



ということで、
1人の物語ってどういうこと?と疑問に思ったり、
そのディテールを研究したかったら、
「恋はデジャブ」を見ることをおすすめする。

そこに出てくる人物は全員端役で、
ヒロインすらも端役に近く描かれている。
その縮小によって、
主人公への感情移入が猛烈に上手くいっている作品だ。

全部こうしろというのは難易度が高すぎるので、
(下手なモノローグや自分語りを入れた、
下手なシナリオにすぐなっちゃうだろう)
あくまでも、
こういう背骨が映画の背骨だと、
理解するために見てほしい。


このうえで、
群像劇を組むならやればよい。
メインの背骨ができてないのにやると、
ぐずぐずになるのがよくわかるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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