2025年07月03日

それは感情移入ではなく共感である

物語の感情移入は、共感と混同されている節がある。
僕はここの脚本理論において、
それを区別している。


共感は「わかるー」だ。
登場人物の気持ちや状況を、自分の気持ちとすること。
いわばミラー細胞のなせる技だ。

感情移入は、
結果的には共感と同じだ。
登場人物の気持ちや状況を、自分の気持ちとすることだろう。
ただ、入口はミラー細胞ではないのだ。

ミラー細胞は反射的に行われる。
だから自分の中にある理解までしか「わかるー」にはならない。
男には女のことが共感できないし、
日本人には中国人のことが共感できないし、
黒人には日本人のことが共感できない。

これが、他人の無理解の分断を生み、
人類に徒党を組ませ、
同質集団として行動させ、
異分子を排除するいじめを生む原動力になる。
原始的な争いや戦争は、これが原動力だ。
神(=我々のわかるーの中心)に逆らう異教徒どもを、
排除して、わかるーの世界=ユートピアになろう、
ということだ。

「あの人変ですよね?」と、
OLちゃんたちが異分子を遠ざける心理も、
これと同じだろう。


感情移入は、これとは異なる。

感情移入は、共感できない人にも起こすことができる。
見る人と同質性がなく、異質性があってもできる。
もちろん同質性があってもできる。

やりかたは、「どんな人でもそんな状況に陥ったら、
同じ行動を取るだろう」と、
気持ちや反応ではなく、行動で描くことだ。
それが好ましいものであろうと、
好ましくないものであろうと構わない。

それが自然であり、人間の本質を描いているならば、
「この登場人物は私とは異なる性格、生まれ育ち、
国、習慣、考え方、立場の人であるが、
私と同じ人間である」
と思うようになる。

だから、感情移入できるように書くには、
実力がいる。
人間の本質を自然に書く力がいる。

だから、嫌われ者にも感情移入させられるし、
モノにも感情移入させられる。

私は炊飯器ではないので、
炊飯器には共感できないが、
壊れそうな炊飯器が、
なんどか点滅を繰り返してあまりうまくないご飯を炊き、
そろそろ変え時だなーと思った頃に、
急に一番うまいご飯を炊いたあと、
二度と点滅しなくて壊れてしまったら、
僕はその炊飯器に感情移入するだろう。

それをそのまま捨てるのではなく、
最後にありがとうございましたと手を合わせるに違いない。
なんならその炊飯器の一部(ネジとか)を取り、
それを形見にするかもしれない。

これが感情移入のしくみだ。
「ああ、それは人間としてわかるよ」
だと思う。

ミラー細胞はもっと反射的、浅い、見た目だけで、
わかるーになるだけだ。
炊飯器に目が描いてあったらかわいいー、くらいにね。



さて、Twitterから。
> ジークアクスのマチュに感情移入できないと言ってる人がいるけど、思春期の中二病を拗らせた娘を複数持つ親としてはど真ん中過ぎて痛いぞ。

ジークアクスを見てないので本当には判断できないが、
この人は「親として」マチュに共感してるだけだ。
感情移入はしていない。

感情移入してるなら、
マチュの気持ちを200%理解して、
マチュの悲しみに本気で悲しみ、
マチュの喜びを自分の喜びにするだろうからね。
親としての伴走者ではなく、
マチュにならなければ、感情移入したことにならない。

つまり、この人はマチュに感情移入してなくて、
「マチュを見る他人」として共感してるにすぎない。

この混同が、物語をめぐる誤解として、
おかしなことになってると思うよ。

このスレッドの別意見:
> そもそも、漫画とかアニメに感情移入しながら見てる人っているんか??

共感系の作品ばかり見てて、
感情移入できるレベルの話を見たことがないのかもしれない。

共感系のマーケティングは、
「F1層が見るから、25才女性を主人公にして、
仕事の悩みや恋の悩みなど、
みんながわかるーという内容を入れましょう!」
になるはずで、
これは物語として間違ってると僕は考えている。
物語はこれ以上深くつくれる。

共感系ならば、おっさんはF1層が反応するものを見ないことになる。
そんなん知らんわってなるからね。
これが感情移入がうまくいくならば、
男から老人から子供からオバサンから、
見る人みんなが感情移入できるものがつくれて、
国民的な物語になる。

かつてはそれを目指していたが、
それを書ける人が減ってきたから、
パーツ集めで可能な、共感的物語へと、
安易に移行したのだとも考えられる。

で、昨今の安易なマーケティングでは、
アニ豚がブヒブヒするような要素だけ散りばめとけ、
そしたら円盤買うやろ、
となっているわけだ。

件の人たちは、むしろ不幸なマーケティングの犠牲者だといえる。


じゃあ、どんな物語なら、
共感以上の感情移入があるんだよ、
ってなるよな。
映画「アマデウス(ディレクターズカット版)」、
映画「恋はデジャブ」、
映画「アルプススタンドのはしのほう」
あたりが、
最近良かったものだね。

我々は中世のイタリア人宮廷作曲家ではないが、
自分より優れたやつが現れた時の気持ちはわかる。
我々は意地悪なオジサンではないが、
この似通った毎日を生きようとするときに、
どうするべきかという気持ちはわかる。
我々は元野球部でも演劇部でもないが、
最後に声を上げて応援したくなる気持ちはとてもわかる。

映画は2時間かけて、完全なる感情移入に至らせる芸術である。

ジークアクスがそこまで到達してるかは未見なので判断できないが、
まあ、漏れ出てくるのを見る限りそんなでもないのだろう。


別のレス:
> なお、富野由悠季氏の実の娘が絶賛思春期だった時代に生み出されたキャラが彼女
(注: クエスパラヤ。逆シャアのロリヒロイン)

僕はこの子供に何一つ感情移入できなかった。
このクソガキとしか思えなかった。
つまり、自分ごとではなく他人ごとであった。

富野よ、老いたな。
クエスの中に俺たちをいれろ。
クエスを見てる人の視点に俺たちを入れるな。

俺たちはアムロやカイの中に入ってファーストガンダムを見てたのに。
(カイは、ミハルのエピソード以降であるが)


そういえばエルピープル、プル2も全然嫌いだったのだが、
これって彼女目線ではなく、
彼女を見てる親目線でしかなかったんだな。
そりゃわがままでめんどくせえだけになるわ。

(今初めてエルピープルと打って気づいたのだが、
これ、当時のロリ漫画雑誌レモンピープルから取ったのでは?
と検索してみたら、どうやら本当らしい。ヲイ)




僕は映画ベースで物語を見てるので、
感情移入がメインだと考えている。

世間には共感ベースが溢れてるので、
混同、誤解が蔓延してる可能性がある。

いや、アニメは共感で見るものであり、
感情移入で見るものではない、
という考え方もあっていい。
じゃあもう見ないなー。
posted by おおおかとしひこ at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック