2025年08月09日

【薙刀式】日英共用の不可能性

僕は日英共用配列には懐疑的だ。
日本語を考えれば考えるほど、
英語を考えれば考えるほど、
2つの言語は異なることを痛感するからだ。

劇場版ガンダム3の主題歌、「めぐりあい」
のサビ部分を例に考える。

(ジークアックスでララァのことが気になって、
色々考えてたら、この詩に久しぶりに再会して、
ちょっと泣いたので考えた)


 Yes, my sweet. Yes, my sweetest.
 I wanna get back where you are.

これを「日本語訳する」ことを考える。
歌の訳なので、音節数を合わせることを考える。

 3 4
 9

の日本語の節回しで訳す、
というのを条件にしようか。
多少の字余り、字足らずは許容するとしよう。


字面どおりにやってみる。

 きみよ いとしさよ
 きみの居場所へ戻りたい

sweetestの訳出が難しいが、
「いとしいきみ」という定型句を使って、
とりあえずこうしてみた。

英語の情報量に対して、
日本語のカバーの狭さを痛感する。
ロックは日本語に向いてないと昔から言われてるが、
3、4、9でこの情報量をどう処理するか、
腕のいるところだ。




考えるにあたって、
原詩の意味に深入りしよう。

ガンダムはアムロの疎外の物語である。

アムロ少年は思春期の男らしく、
自意識が過剰で、
自分が特別だと思いたい16歳だ。
偶然ガンダムに乗ったことからなりゆきでガンダムパイロットになったが、
大活躍してしまったため、
ガンダムパイロットとしてアイデンティティーを得て、
増長する。
その後みんなは自分を必要としてるのか、
ガンダムを必要としてるのか、と悩み、
ガンダムを盗んで家出する。
そこで出会ったのは誇り高き軍人という大人だ。
彼らに憧れるが、彼らを戦場で殺すことになる。
憧れの年上の女が自爆してまでガンダムを守り、
すでに自分一人の問題ではなく、
戦場という大きな流れで生きる覚悟ができてゆく。

なぜアムロがガンダムを降りて民間人に戻らなかったかはわからない。
戦場の悲劇を目の当たりにして、
この戦争を終わらせる決意をしたのであろうことはわかる。
何よりも仲間が大事、というほどではない。
誰もホワイトベースを降りなかったから、かもしれないし、
自分が役に立つ場が自分のアイデンティティーになってたのかもだ。

宇宙に出たアムロは、
ニュータイプという人の新しい姿になりはじめる。
そして先駆者に会う。ララァだ。
ニュータイプの定義はよくわからないが、
「人の革新」として呼ばれている。
ララァとアムロだけが、わかりあえた世界がある。

たぶんアムロは初めて真の理解者を得た。
だけど戦場の掟で、彼女は死ななければならなかった。

戦争を終わらせるのに貢献したアムロは、
死を覚悟して、せめて仲間を助けようと、
ニュータイプ能力で脱出ルートを教える。
自分は沈む要塞と運命を共にすると思った瞬間、
仲間の子供たちがテレパシーで脱出ルートを教えてくれた。

アムロはララァのところへいく、つまり死ぬと覚悟していた。
だけどそっちにはいかないよ、
僕には帰るべき場所(=仲間)があるのだから、
君という最大の理解者のことだけを考えるのはもうやめるよ、
とラストにアムロはララァに別れを告げる。

このときに流れるのがこの曲だ。


劇中、アムロはララァを一度も恋人扱いしたことはない。
むしろ彼女はライバルシャアの愛人であり、
直接話したこともほとんどない。
だがテレパシー能力で「ほんとうに理解し合えた」人だ。

この歌はだから、アムロにとってララァは、
魂の恋人であると歌うわけだ。

my sweetというハニー的な呼び方では全然足りない、
むしろsweetestである、という、
英語表現にしかできない呼びかけだ。

Yesは何を肯定してるのだろう。
僕たちにはわだかまりがあり、
殺し合わなければならない運命であったが、
たしかに私たちは地上でもっとも理解し合えた魂の恋人だ、
そんなことを全部わかってるよ、
という意味だ。

これを、たった3、4にこめた、
この作詞力がすさまじい。

これを平たい日本語で訳すならば、

 そうだよ、ぼくのいとしい人
 わかったんだ、ぼくの一番好きな人よ

くらいの意味が込められてるわけだ。


後半はどうだ。

 I wanna get back where you are.

は字義通り解釈すれば、
「きみのいた所に戻りたい」になるけど、
彼女はすでに死んでいて、
2人の理想郷はもうない。

そして僕には帰れるところがあるんだ、
という意味合いにするには、
「戻りたい気持ちはあふれてくるけれど、
僕はもう進まなきゃいけない」
って意味なんだよね。

そこまで解釈して、
はじめてこの訳に挑むべきだろう。



で、僕の訳はこうしてみた。
もちろん意訳だ。

 なみだ あふれる
 君との場所が遠くなる

音節数は守ったつもり。
英語詞で伝えようとしたことを、
日本語で歌うとしたら、
という文句にしてみた。

ララァという言葉を使いたかったけど、
一般的なラブストーリーになるように調整してみた。

愛しい人よもう一度、誰もひとりでは生きられない、
へ繋がる日本語として自然なもの、
かつ引っかかりのあるように書いたつもり。




この訳がベストだというつもりはないが、
本題に戻ると、
つまりは、
「英語で表現すること、その節回し」と、
「日本語で表現すること、その節回し」は、
かなり違うということをいいたいわけ。

同じワードを使うのではなく、
同じ意味を伝えることに異なるワードを使った方が、
その言語の良さが出ることがある、
ということ。


ここが、僕が日英共用に懐疑的であり、
しかもまともな文章を書くためには否定的である、
根拠なのだ。


もちろん、
1 gram、2 gram、3……と統計を取り、
運指に合わせていけば計算的最適解は出るのかも知れないが、
そもそも言語とは「ことばを書いて意味を表現すること」
なので、
それらが異なる道具なら、共有できるはずないやん、
ということ。


たとえば野球にもサッカーにも使えるボールは、
ありえるか?という問いだ。

計算的中点で、大きさを中間、やわらかさを中間にはできるけど、
どっちにも使えないものじゃない?
になるのでは、ということ。
両者は同じ球技だから共用できるでしょ、
というくらい雑な議論では?
ということだ。


もし日英共用がある程度いける、
という人がいるなら、
もっといい感じに上のサビを訳してみて。
名訳なら黙るわ。
posted by おおおかとしひこ at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック