ゲ謎(と略されていて戸惑う……なんのことかわからんよなw)
での再共演でTwitterが盛り上がっている。
僕が彼らと出会った思い出話でも書いておく。
小次郎はとても難航した。
山猿っぽいのはいるんだよね。
映画版「コータローまかり通る!」
で、黒崎輝(のちのジャスピオン)が演じたような、
野性味のある役者はたくさんいたんだけど、
彼らがギャグをやるとなんか寒いんだよね。
「コータローまかり通る!」「伊賀のカバ丸」
の実写映画は、どちらもギャグが滑ってると思う。
というか、
漫画のギャグと実写のギャグは違うと思う。
漫画のギャグは作者のワールドの中という強固な世界観で守られてるが、
実写のギャグは実世界とつながっているので、
芸人のコントや漫才と直接比較される。
彼らより瞬間的には面白くなければならない。
だから、漫画にピッタリな外見ではなく、
原作版初期小次郎の石松的なノリをやるには、
テレビ的ギャグセンが必要だと、
オーデション前に考えていた。
外見なんてヘアメイクでなんとでも化けさせられる。
ギャグに必要なのは思い切りだ。
滑ろうが滑るまいが、
恥ずかしがってるのはこちらまで恥ずかしくなる。
山猿的な役者は、
体は動くんだけど、思い切りの方向が荒っぽくて、
滑るというよりも壊してる感じだった。
村井はたぶん繊細だ。
繊細だからこそ、思い切らなくてはダメだと、
わかっていたはずだ。
監督メモにも書いたけど、
村井は当初繊細イケメンがやるべき霧風枠であった。
だからオーディションの方向性として、
より抑えた芝居だったと思う。
髪も長かったしね。
なんで僕が彼に小次郎役を振ってみたのか、
あんまり覚えてないんだけど、
小次郎のギャグをやらせたら、
滑りを恐れずに振り切ってきたんだよね。
そこで決まったようなものだ。
笑いの芝居は難しい。
コントロールが求められる。
そしてそれは指導して修正できるものではなくて、
「この辺の線」と自分でわかる力が求められる。
笑いを分かってるか分かってないか、
という言い方でよくいわれる。
笑いのネタ(台本)はこちらで与えるので考える必要はない。
だけど、いったん面白い台本をもらったら、
それが笑えるように演じるのが喜劇役者だ。
村井はたぶん神経が細かいんだ。
だから色んなことの微細な差がわかる。
空気を読むのにも長けている。
この流れでこれ、というのを知っている。
本人はアドリブが苦手と言っていた。
でも台本を与えたら化けるタイプだ。
自分で方向性を決めるには、色んなことを考えすぎるのだろう。
だけどそのセンサーを、こっちの方向で爆発せよ、
と決めてあげたら、ちょうどいい塩梅をもってくる。
村井自身が笑いを理解してるとは思えない。
自分で面白いことを言ってる冗談好きではなさそうだ。
(むしろそういうのは川久保だよな)
だから、
持ち前の神経の細かさで、
小次郎のギャグの方向をコントロールしてるタイプの、
役者なんじゃないかと思っている。
よくオーデションで、
ドアを開けた瞬間にわかった、
なんていうけれど、そんなことはない。
役者の内に秘めたセンスや能力は、
やらせてみて初めてわかる。
ドアを開けた瞬間にわかるのは外見だけで、
立ち居振る舞いである程度自信や運動神経くらいまではわかるけど、
実際にセリフを言わせるまでわからないと思うね。
村井は、典型的な、やらせて初めてわかるタイプの、
カメレオンだと思う。
会ったことないけど堺雅人に似ている。
堺雅人も、オーデションで入ってきたら、
わからんタイプだと思うよ。
そのコントロール力を持ってるのは、
村井がずば抜けてたかな。
役としては、ギャグがあり真面目があり燃えが必要だ。
麗羅を失う泣きがあることもわかっている。
そのすべてを、彼のコントロール力でいける、
と、「抜き足差し足忍び足、俺の奥飛騨暮情がこの奥に……!」
のセリフで読めた。
(奥飛騨暮情はJASRACがかかるので改変されております)
顔のコントロール、身体のコントロール、
そして感情のコントロール。
ひとつの感情だけではなく、
ある感情からある感情への変化。
力の入れどころ、抜きどころ。
台本さえあれば、彼の解釈力は抜きん出るのではないか。
村井は実は冷めている。
この世にそれを熱くするものがあるなら、
命をかけてもいいんじゃないかって思ってると、
僕は解釈している。
対する鈴木は、
姫子とはまた違う、アイドル性を求められている役である。
かといって楽しんごみたいなオカマを求められてるわけではない。
本人は男らしくあろうとしているが、
どこかズレてて結果イノセントかわいい、
みたいな解釈で僕は麗羅を考えていたと思う。
ぶっちゃけ候補は何人もいた。
決め手は死ぬ時の演技だね。
彼以上に泣ける芝居をできる役者がいなかったから、
彼に決まった。
カワイイだけの男子はたくさんいる。
可愛くてかつ実力のあるやつは、なかなかいない。
たどたどしいのはデビュー前だからある程度飲むとして、
それでもなお泣かせる(たどたどしいのが逆に泣かせる)、
という解釈だった。
僕はそれすらも全部芝居だったのでは?
なんて妄想したけれど、
「今ならもっと上手くやってしまう」と、
後年語ってたらしいので、
フレッシュさを活かした役柄だったんだね。
これはCMなんかでもよく使われる手法で、
「若さ」をウリにするわけだ。
100%の演技ではなくて、
50%くらいしか演技できないから、
残り50%を本人のキャラで補うやりかただ。
役者にとっては失礼な方法論だけど、
僕らは結果的によければどっちでもよい。
そもそも20歳そこそこで、
100%あざとく、そして我々が気づかないほどナチュラルに、
ぶりっ子できる人はいない。
芦田愛菜くらい?知らんけど。
だからどこかに素が出るもので、
その素ごと我々は楽しむのだね。
それを100%仮面を被り切りたい、
と思う人ほどプロの役者で、
村井は最初からそうだったような気がするけど、
鈴木は半分素がダダ漏れだった。
その対比を、僕は生かしたつもり。
もっとも、後年鈴木は、100%役者の仮面を被る方法を、
どこかで手に入れていると思う。
三日月役なんかを見るとね(映画版のみしか見てないです)。
ドラマ風魔は、2話ずつ監督がかわる。
僕が1、2話を監督して、3、4を市野さんが、
というようにだ。
監督というのは大変なので、全話やると死ぬからだ。
だから、
麗羅が死ぬ部分の台本は僕が書いて、
パティシエ部をやることまでは僕が決めたけど、
詳しい台本にしたり実際に監督したのは市野さんだ。
麗羅を決めるに当たって、
市野さんの担当回で麗羅の死が決まってたので、
市野さんが演出しやすい役者を、
上のような話をして決めた記憶がある。
儚き者が先に死ぬ。
継ぐ者は自覚のある者。
そんな風に、麗羅と小次郎の役割を決めたはず。
だからこそ市野演出は、
その後黙々と風林火山を振る、
男としての小次郎の表情をラストにもってきたのだ。
失った者、残された者が、
何をするかで失ったものの大きさが決まる。
その完成が風林火山である、
というところへ集約してるんだよね。
12話冒頭で霊体として再会するのは、
ちょっとしたサービスもある。
でも何かを成し遂げたら、
祝福に来て欲しいと思うのは、
残された者のわがままかなあ。
二人とも、
内に秘めた能力を開花させるタイプだと思う。
だから二人とも、
ドアを開けた瞬間にわかったわけではない。
何を持ってるのか、やらせてみてこっちが解読するしかない。
だからオーディションは難しいし、
楽しいんだよね。
風魔のオーディションは300人見たので、
落ちた280人はごめんなさい。
僕が内に秘めたものを引き出し切れなかった可能性もある。
だけど、「僕が引き出しやすい」という相性もあるので、
それも含めてご縁だと思っている。
役者から見て、
「あの監督は自分の○○をうまく引き出してくれるけど、
あの監督は引き出すのが下手」
なんて思ってることもあるだろうからね。
そんなのも含めて、
2007年の夏は、奇跡の出会いだったわけだ。
僕もまた縁があれば、
彼らと再会できるだろう。
その時に彼らの更新された力を、
試してみたくなるに違いない。
でも半端な台本じゃ頼めないしな。
フルスロットル踏みたいもんね。
2025年08月09日
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