2025年10月17日

おもしろいとたのしいは混同されている

おもしろい話、といった場合、
必ずしもたのしい話を意味しないと思う。

悲劇でもよいしバッドエンドでもいいし、
暗くてダークでもいいと思う。


楽しい話は、まあたのしいべきだ。

明るいだろうし、
不安になるようなのは排除したいし、
人間の暗部はないことになっててほしいし、
仲良しだし、
平和だし、
笑いに包まれて、音楽はアップテンポだろう。

なぜそれを求めるのか?

現実が悲惨だから、逃避したいから?


たとえば我々は人間関係に疲弊して、
誰かが誰かのことを使えないと言ってたり、
悪口を言ったり、ギスギスしたりしていて、
だからこそ、
「推したちがただ仲良くしてるだけの話を見て癒されたい」
と思ったりする。

アイドルグループだって仲悪い同士はいるだろうけど、
それはなかったこととして、
仲良しグループがキャッキャやってるように、
思いたいのだろう。
(そしてアイドルとはそうした幻想を与える装置である。
世界は平和であると表現するのは、
ほとんど宗教による世界安定機構と同じだ)

動物同士が並んで眠ってる写真と同じだ。
世界は平和でありたい、
こういうのばっかり見たいと思うのは、
現実が悲惨だからだろう。


それと面白さは、異なると僕は考える。

楽しい話は、面白い話の中のごく一部でしかないと思う。

人間は暗くてひどくて、
出し抜いたり出し抜かれたりして、
悲惨や冷酷や無知や無関心と戦う必要がある。
暗くてひどいだけじゃなく、
優しかったり楽しかったり志がある面もある。
色んなことではじめて人間や社会である。

その中で、理想の勝利をするものを、
面白い話というのではないだろうか?

いや、理想の勝利すら必要条件ではないかもだ。
徹底的に敗北するバッドエンドに、
面白い話がない、とは断言できない。

たとえば漫画「デビルマン」は、
猛烈なバッドエンドで、
それを見たら立てない位の衝撃をうける。

それを「おもしろかった」と言えるかどうかは別だけど、
すごい話であることに変わりはなく、
面白い話の棚の中に入れてもいいと思う。



コンプライアンス言い出してから、
社会やテレビからおもしろさが消えて、
たのしさだけになってる気がする。

つまりペラくなっている。

コンプライアンスとはつまり法の遵守であり、
結果的平等の達成された世界であり、
つまりユートピアである。
法とは悲惨な現実に対して、
いかに正義と理想を実現するか、
と人類が工夫してきたものだから、
それを遵守することはつまりユートピアなのだ。

でも、ユートピア「だけ」がおもしろいわけではない。
ユートピアはたのしいかもしれないが、
それは人生の面白さ、人間の面白さに比べれば、
ほんのごく一部なのだ。

テレビや創作物はたのしいに越したことはないが、
たのしいだけじゃ薄っぺらくなる。

たとえばコンプライアンス遵守のCMを見よ。
全然面白くない。
ペラい理想を描いて、
たのしいと思い込んでるだけじゃん。


僕は幼稚園児のときに、
学芸会の意味がわからなくて、演じることを拒否した記憶がある。
平和で楽しいペラいお遊戯だった。
つまりは親がウフフと自己満足するタイプのやつだ。
くだらない平和なCMと同じだと思う。

だからそれをやることに、面白みを感じなかったんだろう。
生意気なクソガキだったね。


世界はもっと深い。
人類はもっと面白い。
人間は一面的じゃなくて、多面性がある。
ああかと思えばこうだという瞬間もある。


あなたは何がしたいのか?

たのしいだけのことをやりたいなら、
秒で出来ると思う。
類型的な何かを真似して集めれば終わりだ。

おもしろいことをやりたいなら、
一生かかると思う。
「これまでにない、おもしろいもの」を、
創作しなければならないからだ。
posted by おおおかとしひこ at 05:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック