おもしろい話、といった場合、
必ずしもたのしい話を意味しないと思う。
悲劇でもよいしバッドエンドでもいいし、
暗くてダークでもいいと思う。
楽しい話は、まあたのしいべきだ。
明るいだろうし、
不安になるようなのは排除したいし、
人間の暗部はないことになっててほしいし、
仲良しだし、
平和だし、
笑いに包まれて、音楽はアップテンポだろう。
なぜそれを求めるのか?
現実が悲惨だから、逃避したいから?
たとえば我々は人間関係に疲弊して、
誰かが誰かのことを使えないと言ってたり、
悪口を言ったり、ギスギスしたりしていて、
だからこそ、
「推したちがただ仲良くしてるだけの話を見て癒されたい」
と思ったりする。
アイドルグループだって仲悪い同士はいるだろうけど、
それはなかったこととして、
仲良しグループがキャッキャやってるように、
思いたいのだろう。
(そしてアイドルとはそうした幻想を与える装置である。
世界は平和であると表現するのは、
ほとんど宗教による世界安定機構と同じだ)
動物同士が並んで眠ってる写真と同じだ。
世界は平和でありたい、
こういうのばっかり見たいと思うのは、
現実が悲惨だからだろう。
それと面白さは、異なると僕は考える。
楽しい話は、面白い話の中のごく一部でしかないと思う。
人間は暗くてひどくて、
出し抜いたり出し抜かれたりして、
悲惨や冷酷や無知や無関心と戦う必要がある。
暗くてひどいだけじゃなく、
優しかったり楽しかったり志がある面もある。
色んなことではじめて人間や社会である。
その中で、理想の勝利をするものを、
面白い話というのではないだろうか?
いや、理想の勝利すら必要条件ではないかもだ。
徹底的に敗北するバッドエンドに、
面白い話がない、とは断言できない。
たとえば漫画「デビルマン」は、
猛烈なバッドエンドで、
それを見たら立てない位の衝撃をうける。
それを「おもしろかった」と言えるかどうかは別だけど、
すごい話であることに変わりはなく、
面白い話の棚の中に入れてもいいと思う。
コンプライアンス言い出してから、
社会やテレビからおもしろさが消えて、
たのしさだけになってる気がする。
つまりペラくなっている。
コンプライアンスとはつまり法の遵守であり、
結果的平等の達成された世界であり、
つまりユートピアである。
法とは悲惨な現実に対して、
いかに正義と理想を実現するか、
と人類が工夫してきたものだから、
それを遵守することはつまりユートピアなのだ。
でも、ユートピア「だけ」がおもしろいわけではない。
ユートピアはたのしいかもしれないが、
それは人生の面白さ、人間の面白さに比べれば、
ほんのごく一部なのだ。
テレビや創作物はたのしいに越したことはないが、
たのしいだけじゃ薄っぺらくなる。
たとえばコンプライアンス遵守のCMを見よ。
全然面白くない。
ペラい理想を描いて、
たのしいと思い込んでるだけじゃん。
僕は幼稚園児のときに、
学芸会の意味がわからなくて、演じることを拒否した記憶がある。
平和で楽しいペラいお遊戯だった。
つまりは親がウフフと自己満足するタイプのやつだ。
くだらない平和なCMと同じだと思う。
だからそれをやることに、面白みを感じなかったんだろう。
生意気なクソガキだったね。
世界はもっと深い。
人類はもっと面白い。
人間は一面的じゃなくて、多面性がある。
ああかと思えばこうだという瞬間もある。
あなたは何がしたいのか?
たのしいだけのことをやりたいなら、
秒で出来ると思う。
類型的な何かを真似して集めれば終わりだ。
おもしろいことをやりたいなら、
一生かかると思う。
「これまでにない、おもしろいもの」を、
創作しなければならないからだ。
2025年10月17日
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