この映画のテーマはなにか、考えてみよう。
この脚本論では、
テーマとモチーフを区別している。
モチーフは名詞であり、
「描かれたもの、こと」だ。
この映画で言えば、
2人の男の数奇なる運命、
歌舞伎への情熱、
血と芸、
獅子が子を谷底へ落とす、
歌舞伎の美しい舞台、
舞台の向こうに見えた美しいもの、
などだろう。
僕はこれらはテーマではない、
と考えている。
世間ではこれを誤ってテーマだということがある。
「主題」という言い方もする。
これらはあくまで並べられたものにすぎず、
テーマとは、
「それらを通して浮かび上がってくるテーゼ(文)」
だと考える。
たとえば、
「親切な人がいた。その人が死んだ時、
彼に親切にされた人は皆感謝の意を葬式に述べにきた。
彼はたくさんの人を助けたのだ」
という話では、
親切がモチーフだ。
ここから得られるテーマは、
「親切は人を救うので大事である」ということだ。
ただし、
「親切は死ぬまで感謝されない」
と、皮肉を読み取ることもできる。
また、
「親切は感謝されるためにするのではないので、
世の中が少しでも良くなればそれでいいのだ」
とも読み取れる。
テーマを、「それを通して言いたいこと」
というのは、僕は誤りだと考えている。
言いたいことがあるなら直接言え。京都人か。
もちろん、皮肉や主張をわざと込めることもあるが、
実のところ、
物語作家に主張やプロパガンダがあるわけではない。
あるなら政治家をやりたまえ。
物語のテーマとは、
「モチーフたちを並べたら、一気通貫して、
意味の通じるまとまった何かがあると、
物語が独立して立つようになる」
背骨のようなものである。
そうすると、その背骨にいらないものは捨てられるし、
それを強化するように新エピソードを考えることができるのだ。
テーマは結果論だともいえる。
このようにして終わったが、
結局この人の人生は、○○○であったのだ、
のようなものとして、
最後にまとまるわけである。
そして、
テーマは複数あっても良い。
上の親切な人の話では、
良きようにも、悪くにも読めるからね。
この「国宝」のテーマはなんだろう?
僕は、
「蓮の花は泥の上に咲く」だと思う。
芸として完成される美しさは、
たくさんの人生を犠牲にしてきたのである、
ということだ。
必ずそうかはわからない。
それを証明しようとした話でもなかった。
ただ、偶然や運命や決断が重なって、
結果論で、
人間国宝、順風満帆、と思われる下地には、
修羅の道があったのだ、
という話であったように思う。
僕がいいたいのは、で?なんよね。
それはわかる。
わかるけど、
そうまでしてやりたかったことが、
あの雪の日を、紙吹雪で感じるだけ?と。
吉沢亮の役、キクちゃんは、芸道に惚れ込んでいるわけではない。
たまたま女形がうまく、
渡辺謙に見出されて、
敵討ちを失敗したまま、
弟子入りして、
なんか面白くなって、
息子に継がせるんやろと言われて怒っただけだ。
心底芸の素晴らしさをわかったわけではない。
いや、それは田中泯の鷺娘で描かれてたではないか、
と思いきや、そうでもないのよね。
鷺娘の所作や物語に惚れたのではなくて、
惚れたのは紙吹雪なのよ。
それは芸ちゃうやろと思うわけ。
鷺娘で紙吹雪が一切なくて、
にも関わらず、あの雪の日を思い出すような、
雪が降っていると勘違いする、
ならばわかる。
雪が降ってないのに雪が降ったように見える、
なら芸の道を極めようという動機になる。
あれは一体何なんだろうと生涯思い、
悪魔に願い、
親友を家から追い出し、
襲名され、
親友の片足がなくなるのを喜ぶなら、
わかるんだよね。
でも悪魔に願った割には、
襲名式では動揺してたし、
墓場で襲名を打診された時も戸惑ってたし、
親友の足が無くなることには動揺していた。
ほんとに悪魔に願ったの?
「日本一の歌舞伎役者になる」って、
どういうことなのか、
彼の中で定義が曖昧な気がする。
2号さんを捨て置いて、
娘のところへ行かないことは、
何と引き換えだったのか?
カメラマンになった娘に、
「きれいや」と言われたことが達成なのか?
「みんなきれいや言うけれど、
私はそうは思わへん。何が人間国宝や」
がふつうの反応でしょ。
「それでかまへん。きれいは、きたないのと同じや」
ぐらい、人間国宝なら言うてみいや。
そのへんが中途半端だと思った。
ただ綺麗なのは見たらわかるかな?
僕は歌舞伎を美しいと思ったことはない。
おもしろいけど、
世の中にある最高の美とは思えない。
見たらわかるほど美しいと思えないのよね。
「俺は女ではないから女の美を表現できる。
俺は神様ではないから、神様の美を表現できる」
と言われればわかる。
人間には限界があるからこそ、
一瞬だけなら突破できる、ならわかる。
人間国宝が演じれば美になる、
というのは、人間国宝の理解を諦めてるように思う。
「俺は自分を一度もきれいだと思ったことがない。
けれどみんながきれいやというてくれるから、
俺は舞台に立ててるだけですよ」
くらい言うたらどやねん。
美ってそんな簡単に答えのでるものではないと思う。
で、結論が、
舞台の天井、ないし照明のあたり、
まあ、彼岸や天国のあたりを、
きれいやなあと言って終わるのは、
逃げ以外の何者でもない。
生きてるうちにきれいはなくて、
死んで初めてきれいにたどり着けるわけで、
じゃあ観客は全員美を誤解したまま拍手してるだけになってしまう。
いや、そういう皮肉がテーマなら、
まあそれでもいいよ。
でもそれって何が面白いの?になるわけよ。
3時間かけて、
お客はあほやで、を言ってるなら、
そんな映画面白くないわな。
なんや歌舞伎見せたら湧いとるわ、あほやなあ、
というのが本音なら李相日を殴りに行くよ。
描かれていることは、
濃く、迫真のモチーフたちだ。
だけど、それが連なった時に、
意味としては薄くね?
というのが僕の感想。
むしろ、美に関してペラペラの理解やん、
何が国宝やねんって感じ。
歌舞伎の描き方も気になった。
連獅子の髪の毛回すところとか、
道成寺の早変わりとか、
ハッタリの目立つところだけ描いてて、
そんな拍手するところ?って思う。
今時の映画のトリックを見慣れた目には、
リアルでやるのはすごいけど、
まあ大した事ない驚きでしょ。
うわー、毛が回ってすごいとか、
うわー、衣装の早変わりがすごいとか、
本気で思わない。
曾根崎心中の死ぬる心は少しわかったが、
鷺娘の何がそんなに胸を打つのかわからんのよ。
藤娘や道成寺がただのアトラクションだとしても、
鷺娘は何か意味があるべきでしょ。
いや、ほかで勉強してくれ、
という突き放しは不親切だ。
ガラスの仮面を見習ってくれ。
なんか歌舞伎の見方が少しわかるような、
そうしたガイド的な役割をして欲しかったように思う。
歌舞伎に勉強がいるわけがない。
ただの大衆演劇やぞ。
それが芸術というならば、
誰もが理解できるべきでしょ。
なんで白塗りをしてんの?とか、
足踏みを増幅するための床下の仕掛けとか、
基本的な疑問を解消するガイドがほしかったよね。
というわけで、
この映画にはテーマが見えない。
彼の一生はなんだったのか、
芸道を悪魔に頼んでまで追い求めた人生ではなかったが、
娘からは悪魔に頼んでよかったなと言われた人生になった。
本人だけが幸せではない、
みたいなことがテーマとも思えない。
それがわからぬまま死んでいく、
ならば、映画として良いものか?もわからない。
ということで、この映画のテーマについて語ってる人があまりいなくて、
この映画のモチーフについて語ってる人、
この映画の周辺について語ってる人ばかりで、
どうも乗り切れない。
もっとスタンディングオベーションをさせてくれ。
ちなみに鷺娘のストーリーを調べたら以下。
> 「鷺娘」は、恋に悩み苦しむ白鷺の精の物語です。雪の降る水辺で、白無垢姿の娘(鷺の精)が、人間の男性を慕う一途な恋心を語ります。やがて白鷺の姿に戻り、叶わぬ恋の苦しみにもがき、雪の中で息絶えるという悲劇的な結末を迎えます。
だったら、田中泯に、
「得られぬものがあるから、人は輝くのや。
お前の得られぬものは、なんや?」
と一言言わせれば、それがテーマになったのに。
テーマとは、主人公に課せられた呪いである。
その呪いを解こうとして人はもがく。
それを解放することを、カタルシスというのではないか。
2025年08月13日
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