逆説的な話。
そもそも速く書ける自分がいて、
qwertyじゃ遅いから新配列にコンバートする、
という考え方が主流のような気がしている。
でもそうじゃない考え方があってもいいと思っている。
qwertyで100の速度で書いていて、
新配列にコンバートしても100になっていただけなのだが、
新配列が便利なので、
そのうち(qwertyでは無理だった)150にいつの間にかなっていた、
ということはあると思う。
つまり、速く書く道具がなかったから、速く考えられなかった、
ということは全然ありそうな気がしたのだ。
運動に合っていない靴を履いているとしよう。
それで限界までしか走れないから、
その速度が自分の限界だと思い込んでいた、
ということはいくらでもありそうだ。
それがスポーツシューズに変えたとたん、
最初はもとの速度のままだったが、
次第に足の動かし方が分ってきて、
どんどん速くなっていった、
ということは全然ありそうだ。
「速くなるのが目的」にしないほうがよい。
「より合理的になる」が目的になったほうがいいと思う。
合理的になった結果、運動動線が短くなり、
結果速くなることはいくらでもありそうだからね。
そして、思考そのものが速くなることが、
あり得るのでは?というのが本題である。
もしqwertyを使ってしか書いたことがなければ、
qwertyの限界で思考を止められているということになる。
日本語を打つのに向いていない、
日本語の上限を止めているような道具が、
その枷を外した瞬間、
「qwertyの速度で考えていた」から、
次の速度へ行く可能性があると思う。
そして思考が速くなった結果、
qwertyに戻ってくると、
もとのqwertyよりも速くなっている、
ということがままあるのではないか、
と僕は考えている。
つまり、指の運動神経の話ではなくて、
頭の中に文章が現れる速度の話をしているわけ。
速く走れる車に乗ると、
信号の認識とか、交差点の認識ととかが変わってくるような気がする。
そのうち判断も速くなるのではないか。
それが遅い車に戻っても、
認識自体は速いので、運転自体はうまくなり、
結果遅い車でもちょっとは速くなる、
みたいなことではないかと思われる。
薙刀式は1000〜1500字(変換後)/10分で、
考えられるようになる配列ではないかと思う。
僕はもっと速く考えたいので、
その先がないかと摸索中ではあるがね。
配列によって文章が加速するようになると、
考えるのに余裕が出てくる。
そのことによって、
結果たくさん考えられて、
速くなる、ということはありそうだ。
速さとは余裕でもあるわけ。
つまり、新配列をやる目的は、
余裕を持つためにやる、とも言い換えられるな。
2025年09月06日
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