デザインというと日本語がブレるので、
設計を使うことにする。
で、意図と、形と、両方揃って、
はじめて設計だと思う。
このような意図がある。
しかし思ってるだけでは伝わらないので、
具体物でそれを表現する。
腹減った、くらいの原始的なものなら、
鳴き声レベルで済むのだが、
もう少し複雑な意図だと、
言語で表すのも大変だ。
で、言語という形で、
意図を伝える場合、
形と意図がうまくイコールになってなければならない。
たとえばある形が、意図と異なる誤解を引き出すことがある。
OKサインがヨーロッパのどっかでは、
ハメハメのサインになるんじゃなかったっけ。
そんな分かりやすい誤解だけではなく、
これはこのようにも読めてしまう、
などを察知して、
そのようには読めないように、
明らかに意図以外ないように、
文章というのは組み立てる。
で、意図がすっかり消えても、
形に残っているので、
この形をなぞれば、
その意図を理解できる。
それが設計だ。
形だけでは設計にならない。
ボールは丸くて面白いが、
それだけでは設計ではない。
これには投げたり捕ったりして遊ぶものだ、
という意図があれば、
柔らかくて握りやすいボールという形になる。
人にぶつけて殺す意図があれば、
硬い丸いものになるだろう。
ただボールがあるだけでは設計ではない。
遊ぶためのボール、殺すためのボールなど、
意図と形の一致がなければ設計されたボールではない。
構成は設計である。
プロットは設計である。
人物設定は設計である。
人間関係も設計である。
事件も設計である。
展開もターニングポイントも行動も結果も、設計である。
メインプロットもサブプロットも、
それらの交差も設計である。
テーマと全体の関係も設計である。
そして、脚本の文字すべては設計である。
何を意図しているのか、
誤解されないようになっているか、
形だけで意図がないものであるのか、
意図だけで形のないものであるのか、
その形がその意図にベストであったのか、
その意図がその形にベストであったのか、
その形にするならこの意図で良かったのではないか、
その意図ならこの形のほうが良かったのではないか、
などは、
設計の議論とまるで同じだ。
僕がたまにデザインの敗北とか公共デザインの話をするのは、
間違った設計は意図が伝わらないことを、
分かりやすい例で議論したいからだ。
あなたは何を意図したのか?
その意図そのものが適切であったのか?
形に対して大きすぎたり小さすぎたりしなかったか?
その意図は、拍手を持って迎えられるものか?
その意図は、人を驚かせたり感心させるものか?
その意図は、感動させるものか?
その意図は、人に教えたくなるくらい良いものだろうか?
その形は、もっと練られるべきだったか?
その形は、新しいのか?
その形は、目を引くのか?
その形は、誤解なく一本の筋道になってるか?
その形から、意図を汲み取ることは大変か?
そんなことを、
常に考えたいものだ。
そして、意図と形がうまくいったものを、
名作というのだ。
名作の条件に、言葉を介せずとも伝わるもの、
があるように思う。
ラストシーンや重要になるシーンの意図が、
無言で伝わるようになると、
名作の仲間入りができるように思う。
二時間で人生そのものを伝えるには短すぎる。
だけど、二時間で人生の重要な部分を伝えることは、
十分設計されていれば可能だ。
設計せよ。しかるのち、施工せよ。
施工は設計を歪めてないか。
施工が設計を超えることがまれによくある。
設計し直すか。潰して設計に従わせるかは、選んで良い。
2025年09月21日
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