2025年09月21日

設計とは、意図を形にしたもの

デザインというと日本語がブレるので、
設計を使うことにする。

で、意図と、形と、両方揃って、
はじめて設計だと思う。


このような意図がある。
しかし思ってるだけでは伝わらないので、
具体物でそれを表現する。
腹減った、くらいの原始的なものなら、
鳴き声レベルで済むのだが、
もう少し複雑な意図だと、
言語で表すのも大変だ。

で、言語という形で、
意図を伝える場合、
形と意図がうまくイコールになってなければならない。

たとえばある形が、意図と異なる誤解を引き出すことがある。

OKサインがヨーロッパのどっかでは、
ハメハメのサインになるんじゃなかったっけ。
そんな分かりやすい誤解だけではなく、
これはこのようにも読めてしまう、
などを察知して、
そのようには読めないように、
明らかに意図以外ないように、
文章というのは組み立てる。

で、意図がすっかり消えても、
形に残っているので、
この形をなぞれば、
その意図を理解できる。

それが設計だ。


形だけでは設計にならない。

ボールは丸くて面白いが、
それだけでは設計ではない。

これには投げたり捕ったりして遊ぶものだ、
という意図があれば、
柔らかくて握りやすいボールという形になる。
人にぶつけて殺す意図があれば、
硬い丸いものになるだろう。

ただボールがあるだけでは設計ではない。
遊ぶためのボール、殺すためのボールなど、
意図と形の一致がなければ設計されたボールではない。



構成は設計である。
プロットは設計である。
人物設定は設計である。
人間関係も設計である。
事件も設計である。
展開もターニングポイントも行動も結果も、設計である。
メインプロットもサブプロットも、
それらの交差も設計である。
テーマと全体の関係も設計である。

そして、脚本の文字すべては設計である。

何を意図しているのか、
誤解されないようになっているか、
形だけで意図がないものであるのか、
意図だけで形のないものであるのか、
その形がその意図にベストであったのか、
その意図がその形にベストであったのか、
その形にするならこの意図で良かったのではないか、
その意図ならこの形のほうが良かったのではないか、
などは、
設計の議論とまるで同じだ。

僕がたまにデザインの敗北とか公共デザインの話をするのは、
間違った設計は意図が伝わらないことを、
分かりやすい例で議論したいからだ。


あなたは何を意図したのか?
その意図そのものが適切であったのか?
形に対して大きすぎたり小さすぎたりしなかったか?
その意図は、拍手を持って迎えられるものか?
その意図は、人を驚かせたり感心させるものか?
その意図は、感動させるものか?
その意図は、人に教えたくなるくらい良いものだろうか?

その形は、もっと練られるべきだったか?
その形は、新しいのか?
その形は、目を引くのか?
その形は、誤解なく一本の筋道になってるか?
その形から、意図を汲み取ることは大変か?

そんなことを、
常に考えたいものだ。


そして、意図と形がうまくいったものを、
名作というのだ。

名作の条件に、言葉を介せずとも伝わるもの、
があるように思う。

ラストシーンや重要になるシーンの意図が、
無言で伝わるようになると、
名作の仲間入りができるように思う。


二時間で人生そのものを伝えるには短すぎる。
だけど、二時間で人生の重要な部分を伝えることは、
十分設計されていれば可能だ。

設計せよ。しかるのち、施工せよ。
施工は設計を歪めてないか。

施工が設計を超えることがまれによくある。
設計し直すか。潰して設計に従わせるかは、選んで良い。
posted by おおおかとしひこ at 07:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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