ダメな映画には、
たいてい主人公の「丁寧な暮らし」が描かれているのではないか、
という話を友人とした。
これはダメ映画を見分けるチェックポイントになるのでは、という話。
最近見た映画で、そのダメな映画をあげると、
「敵」(吉田大八)、
「パーフェクトデイズ」(ヴィム・ヴェンダース)
あたりか。
主人公が起きて、丁寧に布団をたたみ、
髭をそり、歯を磨き、
飯を自分でつくり、
丁寧な食器やCMのような食卓をつくり、
箸はきれいで、
きれいに食べ、きれいに片づけ、
本を読んだり写真を撮ったり、
デジタル世界となるべく遠ざかっている、
そんな感じの暮らし。
金はかかっていないが、掃除を丁寧にして、
家具も凝ってて、万年筆とか使ってそうな暮らし。
それを「ライフスタイル」と呼ぶことにするか。
それを描くことはCMやプロモーションフィルムに過ぎず、
映画を語ることではない。
ライフスタイルの提示でしかなくて、
そんなものは1分でよい。
何分もかけたり、繰り返し提示することではない。
なぜそんなことを描きたがるのか?
「作者の投影だから」に他ならないと思う。
それは自分だからだ。
あるいは、理想の自分と現在の自分を重ね合わせたものだからだ。
だから毎日の暮らしをつい表現して、
表現した気になっているのだ。
それは映画ではない。プロモーションでしかない。
つまり映画の前にやっているCMタイムでしかなくて、
本編には含まれていないものである。
じゃあ何が映画か?
他者とのかかわりだ。
そのライフスタイルを描くことで、
「主人公の性格や人生を表現した」と、
やった人は思っているはずだ。
しかし、実のところ何一つ表現されていない。
なぜなら、
主人公の性格を表現するのは、
映画においては、「他者との関わり方」で示されるからだ。
困っている人がいたら助けるとか、
いじわるをするとか、
おらつくとか、虚勢をはるとか、
他人に関わっている場合ではないと無視しがちであるとか、
言い方とか、発想とか、
そういう「他者に向けた反射」で、
登場人物の性格は描かれるからである。
つまり、ライフスタイルの時間は、
徹頭徹尾他人が出てこないので、
映画の時間ではないのだ。
映画とは、他者とのコンフリクトを描く。
事件が起こり、他者とコンフリクトがあり、
それを解消解決するまでが映画だ。
そのときに何かを解決しなければならず、
その解決の仕方がテーマになる、
というのが映画の三人称スタイルである。
ところが、ライフスタイルの時間は一人称なのだ。
そしてたいてい一人暮らしをしていて、
その料理の時間とか、工作の時間とか、
創作の時間とかを描いている。
他者との時間は、何も進行していない。
つまりこれは、映画の時間ではないのだ。
もちろん、休み時間が人間には必要なので、
そういうことを休み時間にするのはあるかもしれない。
(ぶっちゃけ、波でも撮っているだけで美しい休み時間は撮れる)
だけど、ライフスタイルを描くタイプの映画は、
なぜかずっとそれを偏執的に描く特徴があると思う。
「パーフェクトデイズ」の一人暮らしの時間は、
冒頭30分くらいあったのではないか、
と思うくらい長かった。
役所広司がしゃべるまで30分くらいかかったような体感であった。
「敵」もずっと長塚京三がそうめんをつくったり、
フランス料理をつくっていた。
なんでこれをやるのだろう?
「これが自分の人生だ」を表現したいから、
としか思えない。
つまり、自己満足でしかない。
映画は自己満足ではなく、
他者との時間である。
それをやっていないのは、他者から逃げている。
むしろ、他者をどう克服するか、どう懐柔するか、
どう対話するか、どう説得するか、
どう殺すか、どう出し抜くか、
などが映画だというのに。
オフビートとか一時期流行った。
オンビート、つまりハリウッドスタイルが、
いやになって、
人生それだけじゃないでしょ、
というスタイルだ。
何も起こらず、ゆるくて、
ライフスタイルを延々流しているタイプの映画だ。
たとえばジム・ジャームッシュなどがよくやっていた。
でもそれは、オンビート映画へのアンチテーゼという、
政治的意味合いがあったから成立したのだ。
いまやユーチューブでVlogとか適当な言葉をつけて、
素敵なライフスタイルを垂れ流しているチャンネルは山ほどある。
映像がオンビートしかなかったから、
オフビートに価値があったわけで、
オフビートのライフスタイル(大体ヒーリングミュージックがかかるよね)が、
飽和しているときには、
オンビートが求められていると僕は思っている。
あなたの脚本に、
主人公が朝起きてから出勤するまでの、
毎日のルーティンを描いているシーンがあったとしたら、
それはカットするべき場面の候補である。
その時間が好き、という理由ならなおさらだ。
それは他者と関わっている時間ではなくて、
自分の満足を追求している時間だからだ。
まだ、
朝起きて、
「お母さんどうして起こしてくれなかったのよう」
「起こしたわよ!」
というベタな喧嘩のほうが、
他者と関わりあっている分、
マシな時間というものである。
そしてそのシーンが、
あとの伏線になっていないならば、
そのシーンは存在の価値がない。
たとえば、
「丁寧な暮らしをしているふりをしながら、
実はそれを監視しているやつへの暗号であったのだ」
とかね。
そうめん、ワイン、ステーキで、
意味があるものを発信していたのだ、
とかなら意味がある。
しかし、それが伏線にもなっていない、
ただのライフスタイルに埋没する時間ならば、
0にしてもよいだろう。
その分、
他者との煩わしい時間を描くべきだ。
そこで展開することこそが、
映画の正体だからだ。
つまり、
パーフェクトデイズも敵も、
他人から逃げている話である。
だからつまらない。
本来ならば、
「他人から逃げている男が、
ある他人とガッツリ関わる話」
になるべきなんだよね。
あなたの物語は、
そんな「静かな」時間帯をもってはならない。
カットして、他者とのもめごとに使いなさい。
登場人物の性格や人生観は、
それだけの単独シーンではなくて、
他者との関わりあいの中で、出しなさい。
自分でないものにさらされて、
人は自分を示す必要に迫られる。
映画とは逆境の克服である。
他人がすでに逆境なのだ。
2025年09月26日
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