2025年09月26日

「丁寧な暮らし」をカットせよ

ダメな映画には、
たいてい主人公の「丁寧な暮らし」が描かれているのではないか、
という話を友人とした。

これはダメ映画を見分けるチェックポイントになるのでは、という話。


最近見た映画で、そのダメな映画をあげると、
「敵」(吉田大八)、
「パーフェクトデイズ」(ヴィム・ヴェンダース)
あたりか。

主人公が起きて、丁寧に布団をたたみ、
髭をそり、歯を磨き、
飯を自分でつくり、
丁寧な食器やCMのような食卓をつくり、
箸はきれいで、
きれいに食べ、きれいに片づけ、
本を読んだり写真を撮ったり、
デジタル世界となるべく遠ざかっている、
そんな感じの暮らし。
金はかかっていないが、掃除を丁寧にして、
家具も凝ってて、万年筆とか使ってそうな暮らし。

それを「ライフスタイル」と呼ぶことにするか。
それを描くことはCMやプロモーションフィルムに過ぎず、
映画を語ることではない。

ライフスタイルの提示でしかなくて、
そんなものは1分でよい。
何分もかけたり、繰り返し提示することではない。


なぜそんなことを描きたがるのか?
「作者の投影だから」に他ならないと思う。

それは自分だからだ。
あるいは、理想の自分と現在の自分を重ね合わせたものだからだ。
だから毎日の暮らしをつい表現して、
表現した気になっているのだ。

それは映画ではない。プロモーションでしかない。
つまり映画の前にやっているCMタイムでしかなくて、
本編には含まれていないものである。

じゃあ何が映画か?
他者とのかかわりだ。


そのライフスタイルを描くことで、
「主人公の性格や人生を表現した」と、
やった人は思っているはずだ。
しかし、実のところ何一つ表現されていない。
なぜなら、
主人公の性格を表現するのは、
映画においては、「他者との関わり方」で示されるからだ。

困っている人がいたら助けるとか、
いじわるをするとか、
おらつくとか、虚勢をはるとか、
他人に関わっている場合ではないと無視しがちであるとか、
言い方とか、発想とか、
そういう「他者に向けた反射」で、
登場人物の性格は描かれるからである。

つまり、ライフスタイルの時間は、
徹頭徹尾他人が出てこないので、
映画の時間ではないのだ。


映画とは、他者とのコンフリクトを描く。
事件が起こり、他者とコンフリクトがあり、
それを解消解決するまでが映画だ。
そのときに何かを解決しなければならず、
その解決の仕方がテーマになる、
というのが映画の三人称スタイルである。

ところが、ライフスタイルの時間は一人称なのだ。
そしてたいてい一人暮らしをしていて、
その料理の時間とか、工作の時間とか、
創作の時間とかを描いている。
他者との時間は、何も進行していない。
つまりこれは、映画の時間ではないのだ。

もちろん、休み時間が人間には必要なので、
そういうことを休み時間にするのはあるかもしれない。
(ぶっちゃけ、波でも撮っているだけで美しい休み時間は撮れる)

だけど、ライフスタイルを描くタイプの映画は、
なぜかずっとそれを偏執的に描く特徴があると思う。

「パーフェクトデイズ」の一人暮らしの時間は、
冒頭30分くらいあったのではないか、
と思うくらい長かった。
役所広司がしゃべるまで30分くらいかかったような体感であった。
「敵」もずっと長塚京三がそうめんをつくったり、
フランス料理をつくっていた。

なんでこれをやるのだろう?
「これが自分の人生だ」を表現したいから、
としか思えない。
つまり、自己満足でしかない。

映画は自己満足ではなく、
他者との時間である。
それをやっていないのは、他者から逃げている。
むしろ、他者をどう克服するか、どう懐柔するか、
どう対話するか、どう説得するか、
どう殺すか、どう出し抜くか、
などが映画だというのに。


オフビートとか一時期流行った。
オンビート、つまりハリウッドスタイルが、
いやになって、
人生それだけじゃないでしょ、
というスタイルだ。
何も起こらず、ゆるくて、
ライフスタイルを延々流しているタイプの映画だ。
たとえばジム・ジャームッシュなどがよくやっていた。

でもそれは、オンビート映画へのアンチテーゼという、
政治的意味合いがあったから成立したのだ。
いまやユーチューブでVlogとか適当な言葉をつけて、
素敵なライフスタイルを垂れ流しているチャンネルは山ほどある。
映像がオンビートしかなかったから、
オフビートに価値があったわけで、
オフビートのライフスタイル(大体ヒーリングミュージックがかかるよね)が、
飽和しているときには、
オンビートが求められていると僕は思っている。


あなたの脚本に、
主人公が朝起きてから出勤するまでの、
毎日のルーティンを描いているシーンがあったとしたら、
それはカットするべき場面の候補である。
その時間が好き、という理由ならなおさらだ。

それは他者と関わっている時間ではなくて、
自分の満足を追求している時間だからだ。
まだ、
朝起きて、
「お母さんどうして起こしてくれなかったのよう」
「起こしたわよ!」
というベタな喧嘩のほうが、
他者と関わりあっている分、
マシな時間というものである。

そしてそのシーンが、
あとの伏線になっていないならば、
そのシーンは存在の価値がない。

たとえば、
「丁寧な暮らしをしているふりをしながら、
実はそれを監視しているやつへの暗号であったのだ」
とかね。
そうめん、ワイン、ステーキで、
意味があるものを発信していたのだ、
とかなら意味がある。
しかし、それが伏線にもなっていない、
ただのライフスタイルに埋没する時間ならば、
0にしてもよいだろう。

その分、
他者との煩わしい時間を描くべきだ。
そこで展開することこそが、
映画の正体だからだ。

つまり、
パーフェクトデイズも敵も、
他人から逃げている話である。
だからつまらない。

本来ならば、
「他人から逃げている男が、
ある他人とガッツリ関わる話」
になるべきなんだよね。


あなたの物語は、
そんな「静かな」時間帯をもってはならない。
カットして、他者とのもめごとに使いなさい。

登場人物の性格や人生観は、
それだけの単独シーンではなくて、
他者との関わりあいの中で、出しなさい。

自分でないものにさらされて、
人は自分を示す必要に迫られる。

映画とは逆境の克服である。
他人がすでに逆境なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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