最近映画館まで行くのがだるい。
じゃあ配信ならいいのか、というとそれもだるい。
2時間集中するのがだるいのかと思うと、
別にショートドラマでもだるい。
他人の話に興味がないのかといわれると、
ツイッターの他人の話はよく見聞きする。
何がしんどいんだろう?と思うと、
「感情移入をするために、自分を空にすること」
がしんどいんじゃないか、って最近思い始めた。
どういうことかというと、
ストーリーを見るには感情移入する必要がある。
それはつまり、
「別の人格になること」だ。
自分という殻を脱ぎ捨てて、
主人公という別の人生をいっとき送る、
というのがストーリーを見ることである。
それが、今1個しか人格がなくて、
2個目をインストールすればいい、
みたいな、
高校生のような頃だと簡単だったと思う。
だけど情報化社会になり、
ネットでの人格(オンライン会議の人格も含む)と、
本来の人格がだいぶ乖離してきて、
「いつも2個以上の人格を使い分けているなー」
と最近思うようになってきた。
かつては公私、ぐらいの2個人格でよかった。
だから3個目の映画の架空人格を入れることが、
映画を見ることくらいだった。
だけどオンラインが中心になってくると、
公、私、ネット向けの自分、と、
少なくとも3つくらい人格があるんじゃないか、
ってことだ。
だから、4つ目の映画人格を自分にインストールする余裕が、
ないんじゃないか、って思い始めている。
これは僕だけの傾向ではなくて、
ネット社会で複数のクラスタに所属している人は、
みな感じていることなんじゃないかなあ、って思う。
ネット人格を複数使い分けてたら、
5も6も7も人格があり、
フィクションを自分に入れる余裕がないのでは?と。
なぜフィクションの力が落ちたのか?
にはいろいろな答えがありそうだが、
ネット上に色んな人格が出来過ぎて、
一個の人格を自分の中につくりあげられるスペースが減ってきたから、
というのがあると思ったわけ。
昔の映画は人生の解像度も低く、
漫画みたいな人格でよかった面もある。
だけど、
HDやネットの普及で4Kとか言い出してから、
現実の解像度が上がりすぎて、
「1個の人格の解像度」も上がったんじゃないか、
って思う。
つまり、
感情移入先の解像度が上がりすぎて、
こっちの負荷がより大きくなっているんじゃないか、
というのが僕の考えなわけ。
たとえば西部劇の「シェーン」なんて、
かなりゆるゆるな隙間だらけだ。
「ターミネーター」だって、
ガバガバな感じだ。だから想像の隙間がある。
だけど「国宝」は、
ギチギチに設定が詰められてる感じがする。
(だから吉沢亮のキャラクターは空虚でバランスを取ったのかもしれない)
別のリアルをリアルに構築すればするほど、
そこに没入して構築するのに手間がかかる。
8ビットくらいの現実なら、
簡単に出来るのに。
だから8番出口くらいの解像度が手軽だったんだと思う。
ゲームも解像度があがり、
気軽に本数がつくられなくなったと思う。
映画もドラマも、そうなっているんじゃないかなあ、って思ったんだよね。
逆に、
作者の人生の解像度の低いもの、ラノベや、
素人小説とかは、
量産されるようになったんじゃないかしら。
プロじゃないから、そこまで解像度があがってなくても許される、的な。
だから、
適当な主人公、適当な世界観の、
適当なゆるい話が見たい、
という欲望があるような気がする。
感情移入はネット人格使い分け時代にはしんどいのだ。
だからゆるい日常系が見たいんじゃないか。
自分をそこに投影して、その人生を生きるよりも、
他者としての生き物(かわいい女の子)を見て、
それらがキャッキャしているだけを眺めていたいんじゃないか。
映画がしんどくなるとは思わなかった。
そういえば、
大人になってゲームがつまらなくなり、
アニメも見なくなり、小説も読まなくなる、
などの話はよく聞く。
大人になって体力が落ちたからだ、とか、
忙しくてそれにかまけている時間が取れない、とか、
もっともらしい理由で説明されるけれど、
事態はもっと深刻で、
「自分にそんな解像度の高い別人格をインストールするのがめんどくさいから」
なんじゃないか、
って思ったわけです。
とくに大人になると、いろんな知り合いができて、
色々使い分けなきゃいけなくなる人格が増える。
真実のところは分からない。
あくまで説だ。
2025年09月27日
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