2025年09月28日

とっても一人称映画(「アメリカン・サイコ」評)

見てない映画を見るシリーズ。
まあ、見なくてもよかったかな。

一人称を三人称で表現しているので、
陳腐だねえ、という典型。
「その人にとっては大事なことなんだけど、
はたから見たらどうでもいいんだよ」
がテーマだといえるかな?
つまり小説原作を確信犯的にバカにしたかったのかな?

以下ネタバレ。


オチとしては、
誰も殺してない、
ただの妄想であった、
誰も他人に興味がないのだ、
中身と外の不一致なんてみんなそうなんだからさ、
アメリカは行ける屍たちがウロウロしてるだけだ、
が言いたかったのだろうか?

そのどんでんをやるには、
どこからがリアルで、
どこからが妄想なのかの、
手がかりが少なすぎるんよね。

娼婦殺しはクローゼットの死体が鮮血すぎたり、
チェーンソーが刺さったりするわけないやん、
なんで誰も来ないんだという半分ギャグで示してたり、
ビルの警備員殺しは妄想でした→現実はこう、
を明示してたけど、
ATM前の老婆殺しは「子猫を入れろ」というありえない表示が、
狂ってるの意味になるのか?とよくわからんし、
警官殺しはパトカー爆発してるしで、
後半はギャグなのか?
と思われるほど、
狂ってるのでは、あるいは妄想なのでは、
が比較的表現されてはいる。

だけど冒頭のホームレス殺し、
メイン事件の同僚の頭かち割りは、
現実だったのか妄想だったかの、
確信がないまま話が終わっている。

ホームレスの黒人が風呂入ってるだろ、
という肌の状態だったのが、
映画的嘘なのか妄想でしたなのかどっちなんだい。


同僚殺しについては、
弁護士が「その人とランチしましたよ」の一言で、
なかったことになっている?
だって依頼人の名前を間違えたもの、
なんてことになっていて、
ほんとのことはわかっていない。

だけど、ほんとのことなんて何もわからないのだ、
というのがテーマだとしたら、
まあそうなるわな、
でしかない。


顧問弁護士が違う名前をいうのも、
「実は主人公は狂ってて、
ニューヨークの偉いパトリックだと思い込んでいただけなのだ」
オチかと思いきや、
ただ間違えただけっぽいよな。
つまり、誰も興味がないのだ、
という話なのだと思われる。


で、
だとして、
それの何がおもろいの?って話なのよ。

これって一人称的には、
大変な目にあった、妄想が悪化した、
なんだけど、
三人称的には何も起こってないのよね。

いや、内と外が異なることがテーマなのだ、
ということでギリギリ保ってるけれど、
三人称的に起こったことは、
探偵が話を聞きに来たことと、
秘書に手帳を見られたことだけだよね。

別に犯人に疑われて証拠を握られて、
追跡されてるわけでもないし、
秘書にガン詰めされたりするわけでもない。

「なにもなかった」ので、
だから三人称的ドラマとして、
つまらないのよ。

「実は狂ってました」系の映画は、
この映画の後にたくさん作られることになるので、
そういう意味では叙述トリック系の、
先駆けだったのかしらねえ。


「実は狂ってました」系の映画では、
一人称では辻褄の合う話だったのだが、
三人称ではまったく異なるおそろしいことだったのだ、
という、三人称側でも何かが進行していて、
取り返しがつかない、となることがとても多い。
それは、
この映画の「三人称的には何も起こってへんやんけ」
というモヤモヤを、
解消しなければと学習したのかもしれない。



クリスチャン・ベールは、
いつも外面はかっこいいが、
内面が空っぽな気がいつもする。
空っぽイケメン役者って感じが、
この役にとてもあっていた。

外面と内面。三人称と一人称。
それそのものがテーマだから、
ギリ成立してたが、
三人称世界で何も起こったわけではないので、
僕が映画を見る前と見た後で、
世界が変わっていないため、
バラエティを見たかのようなペラペラな記憶になってしまった。


世界は永遠に変わったのだ、
あるいは、世界は少しだけ良い方向に変わった、
などを見たいのが、
やはり映画というべきものだろう。
posted by おおおかとしひこ at 01:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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