なぜなら、それは小説の要素であり、
映画の要素ではないからだ。
ときどき、地の文のようなものを、
ナレーションで読むタイプの映画がある。
こないだみた「アメリカンサイコ」がそのタイプ。
で、
そういうのって、
ナレーションのほうがセリフよりいい文なんだよ。
そういうのは朗読芸でやっとけ、
って感じで、
劇としてやるべきことじゃないのだ。
劇はノーナレーションだ。
言葉が発せられるのは、
すべて誰かが誰かに言う言葉だけだ。
(例外的に独り言がある)
劇映画のセリフはそれで組み立てるのである。
そして、
セリフよりも良いのは無言であった。
つまり、
無言のセリフ>セリフ>ナレーションという、
ヒエラルキーがある。
それは、
映画は目で見るものであり、
音で聞くものではないからである。
(サイレントムービーから出発した。
トーキーはあとでできたものだ)
音によるセリフは、あくまで目の補佐にすぎないのだ。
そこに、
その場の誰にも言ってないナレーションが入るのは、
独り言以下なのだ。
にもかかわらず、
小説の地の文は、セリフよりよく書けていることがとても多い。
地の文が主役まである。
だから、
セリフよりよいナレーションを採用しがちになってしまう。
小説はだから地の文、作者の頭の中が主舞台だ。
映画はちがう。
カメラで撮られている、人と人の間が舞台である。
そこに、作者の頭の中の開陳はノイズになるのだ。
これをわかってないと、
三人称形式になおせない。
小説の地の文がよかったが、全カットしたら、
小説のセリフだけだとへぼくなった、
というヘボい実写化はまれによくある。
だから、セリフより良い地の文やナレーションがあるなら、
それに匹敵するよいセリフに書き直すべきだし、
それ以上のよい無言の瞬間をつくるべきなのだ。
それをサボってるのが、
いい感じのナレーション多用映画だと思うと良い。
いやー、いいナレーション書けたなー、
なんて思ってるのは自己満足だ。
もっといいセリフを書きたまえ。
ただし、
冒頭とラストだけは、
ナレーションは存在していい。
全部で10行がマックスだろうか。
理想は数行で決めたいところだね。
ここだけは、作者が主人公のふりをして、
観客と直接会話できるところになると思う。
「私はこう思う」を、
いいナレーションにできるチャンスだね。
2025年09月29日
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