2025年09月29日

ナレーションのほうがセリフよりいいのは映画シナリオ的に危険

なぜなら、それは小説の要素であり、
映画の要素ではないからだ。


ときどき、地の文のようなものを、
ナレーションで読むタイプの映画がある。
こないだみた「アメリカンサイコ」がそのタイプ。

で、
そういうのって、
ナレーションのほうがセリフよりいい文なんだよ。

そういうのは朗読芸でやっとけ、
って感じで、
劇としてやるべきことじゃないのだ。

劇はノーナレーションだ。
言葉が発せられるのは、
すべて誰かが誰かに言う言葉だけだ。
(例外的に独り言がある)

劇映画のセリフはそれで組み立てるのである。


そして、
セリフよりも良いのは無言であった。

つまり、
無言のセリフ>セリフ>ナレーションという、
ヒエラルキーがある。

それは、
映画は目で見るものであり、
音で聞くものではないからである。
(サイレントムービーから出発した。
トーキーはあとでできたものだ)

音によるセリフは、あくまで目の補佐にすぎないのだ。

そこに、
その場の誰にも言ってないナレーションが入るのは、
独り言以下なのだ。


にもかかわらず、
小説の地の文は、セリフよりよく書けていることがとても多い。
地の文が主役まである。

だから、
セリフよりよいナレーションを採用しがちになってしまう。


小説はだから地の文、作者の頭の中が主舞台だ。
映画はちがう。
カメラで撮られている、人と人の間が舞台である。

そこに、作者の頭の中の開陳はノイズになるのだ。




これをわかってないと、
三人称形式になおせない。
小説の地の文がよかったが、全カットしたら、
小説のセリフだけだとへぼくなった、
というヘボい実写化はまれによくある。

だから、セリフより良い地の文やナレーションがあるなら、
それに匹敵するよいセリフに書き直すべきだし、
それ以上のよい無言の瞬間をつくるべきなのだ。

それをサボってるのが、
いい感じのナレーション多用映画だと思うと良い。


いやー、いいナレーション書けたなー、
なんて思ってるのは自己満足だ。
もっといいセリフを書きたまえ。

ただし、
冒頭とラストだけは、
ナレーションは存在していい。
全部で10行がマックスだろうか。
理想は数行で決めたいところだね。

ここだけは、作者が主人公のふりをして、
観客と直接会話できるところになると思う。
「私はこう思う」を、
いいナレーションにできるチャンスだね。
posted by おおおかとしひこ at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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