変化は、必ず物語には必要だ。
何も成長してないのなら、その物語からは教訓を得られなかったわけで、
たいした話じゃなかった、と自ら認めているようなものだ。
で、変化は外から変化させられるものではない、
ということだ。
自分が変わることを想像しよう。
環境によって、あるいは親によって、
洗脳させられた人がどれくらいいるか分からないが、
そういうものを除き、
人が変わるときは、
強制的に外から変化させられるものでない、
ということだ。
(いや、そもそも洗脳による変化は悪であり、
それは倒すべき対象ですらあるので、
物語で強制的洗脳のことを変化とは呼ばない)
大きな悲しみを受けたり、
大きなつらいことを受けたりすると、
人は変わってしまうことがある。
それは、「そうでもしないと自分を守れなかったから」であることが多い。
だから、自分を守る代わりに、
他人に対しては冷たい人になったり、
よくない人に見えることが多いと思う。
それは主人公の経験する最終的な変化ではない。
物語というのはハッピーエンドが理想であり、
「主人公が良い方向に変わった」が、
ハッピーエンドだからだ。
じゃあ、良い方向とはどっちだろう。
そして、洗脳によって「良い」になるのは、
たいてい新興宗教だから、
そういう変わり方ではないだろう。
だから、
主人公の変化は、
他人によって変えられるものでなくて、
自ら変わろうと思って変わるものである。
つまり、「変わる」のではなく、
「変える」が正しいと思う。
自分を変えようと思うときはどういうときだろう?
自堕落な生活をやめて、正しい生活に戻る時だろうか?
じめじめした性格をやめて、男らしく彼女に告白することだろうか?
「自分の弱点を認めて、これは変えるべきことだ、変わろう」
と思うときではないだろうか?
変わらなきゃいけなくても、
変わらない人はたくさんいる。
なるべくそんなめんどくさいことはしたくないからだ。
だから世間からデブはいなくならない。
誰もがダイエット生活なんてしたくないからだ。
だけど、馬鹿じゃないから、
それをしなければいけない、
弱点を克服したほうがいいに決まっている、
ということくらいは誰でもわかっているものだ。
あとはきっかけだよな。
物語とは、自分を変えるきっかけがやって来ることでもある。
内向的な性格の男子には、素敵な女子がやって来るものである。
冒険をしたことのない人には、恐怖を克服するような大冒険がやって来る。
責任から逃げていた人には、責任の重い仕事が降ってくる。
その時に、逃げられるものなら逃げられる、
という状況をいったん置いておくことは大事だね。
「いや、もう逃げない、自分で自分を変えなくては、
この先、生きていけない」
となるべきだということだ。
その主人公の決心が、第一ターニングポイント、
ないしどこかで必要だと思う。
自分から変えないと、変わらない、
ということを身をもって描くべきだということだ。
人間、そんな簡単に変わらない。
本質というのは似たようなもので、
三つ子の魂百までなのだ。
だけど、
もし今弱点を克服して、変わるチャンスだとしたら、
人はむしろ喜んで苦しみを背負うのではないだろうか。
そうした内的無意識が描けていると、
「変わる」という事象には、
「自らを変える」という自動詞になると思うんだよね。
本気で自分を変えるのは苦しい。
人生で一番つらいと思う。
これに向き合うくらいなら、
死んだほうがましとか、
死んだように生きているほうが楽とか、
そういうクラスでしんどい。
でも、
それを今変えようと思ったんだ、
となるまでを描くのが、物語だと思うんだよね。
物語とは人生の本質である。
本質的な所まで下りて行かないのは、
児戯だと思うなあ。
かっこをつけた変化なんて出来ないよ。
いつもぼろぼろと涙を流して、
鼻水流して、
こわくてぶるぶる震えて、
足もがくがくしてて、
それでもエイヤと飛びこまないと、
自分なんて変わらないんだ。
ともすれば、今までの惰性に戻ろうとする力を、
自分の意志で断らないといけないんだ。
そんな追い込みを見ると、
そしてその成功を見ると、
人は影響を受ける。
勇気づけられる。
それが、物語の力のひとつだと思う。
「ようし、俺もがんばろう。
こんなところでグダグダやっている場合ではないや」と思ってくれれば、
物語のいちばん大事な役目は、
果たせたのではないかと思うなあ。
主人公は勝手に変化するのではない。
自分を変える。
変身は自分の意志と勇気と、
チャンスがかみ合ったときだ。
2025年11月14日
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