これは客観的になっているか、のひとつのチェック指標。
あなたは一つの作品を書くときに、
色んなものを創作する。
世界、背景の歴史、
人物設定、組織の設定、アイテムや構造の設定、
そして色んなセリフ。
下調べもするだろう。
それらを織り込んでリアリティを出すに違いない。
で、どれだけ苦労してその世界をつくったとしても、観客には関係ないよ、
ということ。
作者が苦労して、ボリュームを出したなあ、
と自負したとしても、
それが客に伝わっていないならば、
うっすいものにしかなっていないということだ。
極端な例を考えようか。
あなたは東京の人で、関西の話を書こうとする。
東西の歴史観や人間観の違い、
人生で大事にするものなどが違うことを、
綿密に調べて、ボリュームのある話に仕立て上げた、
と自負しているとしよう。
しかしそれは、関西人から見たら、
そのへんのテレビでやっている、
そのへんに転がっている、普通の話に見えるに違いない、ということだ。
あなたは異世界について綿密に構築したが、
その異世界に住んでいる人からしたら日常なので、
なんのボリューム感も感じない。
話そのもの、プロットそのものしか見ないで、
設定の細かさを見ないだろう。
(よくできていればいるほどね)
あなたの渾身の描写は、
なんのオリジナリティもない、関西ではごく普通のものであったわけだ。
作者的にはフルボリュームで出したのに、
受け手からしたら、
こんな感じで、たいしたことのないペラペラボリュームで受け取っているかもね、
という話をしようとしている。
それはつまり、
「あなたが知らないものを知る過程」
というのがそのボリューム感覚に関わっている、
ということだ。
あなたが知っているか知っていないかは、
実はどうでもいい。
「観客が知らないものを知っていく過程」の、
ボリュームを考えろ、
ということを言おうとしている。
例えば、
関東も関西も、
電車の運転手の生活については詳しくないだろう。
だから電車の運転手のことについて、
細かくボリュームのある話があったら、
「ボリュームがあったなあ」と思うはずだ。
(電車オタクはそうでもない、と思うだろうが、
まあそれは大多数ではない)
それはつまり、
「知っていく過程」にボリュームがある、
ということである。
逆に、よく知っている世界の、よく知っているプロットだと、
情報量がないから、ペラペラに見えるんじゃないかな。
じゃあ、よく知っている世界でやるならば、
よっぽどプロットが何段階にも折り重なっていて、
複雑な話になっていないと、
ボリュームを感じないだろうね。
あなたが想像しているより、
観客はやせていると感じるかもしれない。
あるいは、あなたが知っていることを、
知らない人に出すために説明しすぎると、
情報量多すぎ、となるかもしれない。
つまり、知らない人が、
これを受け取ったときに、
どの程度のボリュームと感じるか、
というのを、
我々は想定していく必要がある。
それを想像できないのは、
送り手として能力がないのだ。
あなたの苦労は関係ない。
観客がどういう楽しみをするのかを、
0ベースから想像しないと、
観客がどう受け取るかなんて、
想像できないというものだ。
2025年11月20日
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