毎日ATCチャレンジやってるので、
これまで避けてきたタイピングゲームの解像度が、
もりもり上がっている。
記録にチャレンジする時は、
ノーミスないし、数ミスでリカバリがうまくいった時だ。
つまりほとんど綱渡りをしているのに近い感覚。
落ちたら死ぬゲーム。
ミスしたらESCするゲーム。
落ちなかったときに成功のゲーム。
ミスしなかった時に成功のゲーム。
タイピングゲームの記録狙いは、
どうやったらミスしないか、
どうやったら落ち着いて慌てないかの、
メンタルを競うゲームでもある。
動揺したら負けだ。
ここで立て直せても、
次に打てるはずの連接をミスったりする。
人間の平衡感覚というのは、
一度崩れたら、バランスの立て直しの立て直しをしはじめたりして、
どんどん崩れていくね。
むしろ立ち止まった方がマシまであるかもね。
これは、普段書いてる文章とはまるで違う心理状態だ。
アナログの習字ならいざ知らず、
いくらでもBSできてカットペーストできるデジタルなんだぜ?
何回滑っても言い直しができる冗談と同じなんだぜ?
「よくなるまで何度でも書き直す」がデフォじゃんか。
あるところから進む場合、
たくさんの選択肢があり、
ここやろと思って書いていっても、
全然違うことはよくある。
じゃあ戻るか、をやればいいだけだ。
むしろ、間違いかもしれないが勢いよく進んでいった先に、
案外いい答えがあることがあり、
その時はナイストライと自分をほめることになる。
だから、書き慣れた人ほど、ガンガン突っ込むと思う。
普通の人なら躊躇するかもしれない、
完全には正解と思えないところでも、
フルスロットルで突っ込む。
そこで突破できたら面白くなることを知ってるからだ。
あー違ったなーとなったら、
笑ってBSするか、
カットして「また使うかも」のファイルにペーストするのみだ。
この書き方が僕のデフォルトである。
恐れなどどこにもない。
唯一の恐れは、つまらないことだけだ。
そしてビビって書いたものは100%つまらないので、
自信溢れてガンガン突っ込むことだけを考えるのだ。
そしたらタイプミスも変換ミスも、
言葉遣いのミスもするよ。
でもそこは大事じゃない。
今この場で面白いことだけが正義なのであり、
ミスはあとで直せばいいからだ。
ミスを直している最中に、
面白いことが逃げていくのだけが嫌なのだ。
なぜなら、アイデアはすぐに消えてしまうからだ。
このひらめきを文字化しておかないと、
永遠にそれは失われるからだ。
このフルスロットルと、
息を張り詰めて糸の上をノーミスで渡るのとは、
態度がまったく異なる。
精神状態が真逆と言える。
正確に歩こうとすればするほど、
歩くってどうやるんだっけ?ってなる。
歩きながら歩くことがわからなくなってくる。
そうしてミスはミスを呼び、綱から落ちて死んでしまう。
歩くってどうやるんだっけ?と疑問に思うのは、
死の前兆である。
だから、疑問に思ったらもうESCでいいくらいだ。
創作文を書いてる時は、
止まってはいけない。
つまらなくても回転し続けるのがコツである。
とりあえずなんか進めているうちに、
面白いオチを思いつき、
脱出口が見えたと思うと勝ちだ。
そしたら前半の泥沼をカットすればいいからね。
もし出口が見つからなかったら、
前に戻って別の回転をしてみればいいだけだ。
この、意識の差が違いすぎる。
出口を見つけるために泥沼で転げ回るのと、
ミスしてはいけなくて集中するのと。
指先の技術や意識配分などの、
形而下の話しかみんなしてなくね?
そもそもの、形而上の目的や意識が、
全然違うくね?
綱渡りの道具とは、
偏差があっても元に戻りやすい大きなヤジロベエであり、
綱の上の感触をとらえる足の裏であり、
汗で滑らないための滑り止めであろう。
そして、下を見ずにゴールを見る精神力だろうか。
それ、ひとつも書き物にいらないね。
タイピングゲームで記録に挑戦するために必要なものは、
全部書き物にいらないね。
新配列は、書き物のための道具である。
ヤジロベエも滑り止めも、新配列になくていいよな。
面白いものを書く時の道具が欲しいのであって、
ミスしない精神の時の道具は別にいらないし、
邪魔まである。
もちろん、この先のタイピングゲーム道を極めると、
別の景色が見えてくるかもしれないので、
タイパーの皆さんは、
自分の精神状態とか、自分にしか見えてない光景を、
言語化してください。
大谷翔平にしか見えてない世界っておもしろそうじゃん。
アスリートの見えてる世界を見せてよ。
その、字を書く道具でさ。
2025年10月10日
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