2025年10月13日

大きい話と、小さい話の両立

これがおそらく、映画的物語なんじゃないかと思っている。


大きい話とは、
世界の破滅とか、組織の崩壊とか、
街の危機とか、
主人公が所属する世界に関する出来事だ。
会社の中の話ならば、社長がいて、
役員がいて、部長や課長がいるだろう。
色んな部署同士がいがみあっているかもしれない。

まあ、とにかく、世界の大きさがある。
教室の中の話は、教室の中だけが世界だ。
映画というのは、この世界が激変するさまを描く。
最初はこうだったのに、
こういうのが動き、これも動き、
最初とは似ても似つかぬものになっているのが、
変化と呼ばれる。

宇宙人がせめてきて、地球が危機に陥るが、
宇宙人を退治して地球は平和に戻るとか、
転校生がやってきて、これまでの人間関係が全然変わってしまうとか。
世界がどう動くか、を語るのが、映画世界の「大きな話」だ。

一方、小さな話がある。
これは個人の話だ。
たとえば親子の確執であるとか、親友の話であるとか、兄弟の話であるとか、恋人の話であるとか。

この小さい話を、大きな話で表現するのが、
映画的ストーリーだと僕は考えている。

どういうことかというと、
宇宙をまたにかけた壮大な戦争が、
親子喧嘩であった、ようにする。
大きな話は、実は小さな話の代理であった、
ようにするとよい。
王位をめぐる兄弟の確執が、
世界を二分する戦争になる、ようなことだ。

ラスボスがその世界の支配者になるのは、
ある種の必然である。
それを小さな個人的関係に結び付けるので、
ラスボスは父とか親になりがちなのだ。
あるいは親友とかライバルとかね。
これは、大きな話と小さな話がうまく重なり合っている例だ。


小さな話だけだと、どうしてもスケールが小さくなる。
半径2メートルの話に終始してしまう。
小説なんかでは面白いかもしれないが、
絵で語る映画としては、スケール感が足りない。
芥川賞は映画にならないのだ。
小説の映画化によくある問題だけど、
それをうまく世界の大きな話と連動できれば、
絵にも描きやすくなる。
(たとえば僕が好きなのは「ギルバート・グレイプ」の、
太った母が死んだあと、家のソファに座らせて、
火をつけて家ごと燃やすシーンだ。
家の象徴であった母を、その空間ごと葬式する、
という美しい場面であった)

大きな話だけだと、感情移入がうまくいかなくなる。
世界の破滅や部活の消滅に、そのうち興味が持てなくなる。
おおざっぱすぎるのだと思う。
犯人が捕まらなくても構わん、とか、
地球がなくなってもいいや、とか、途中で飽きちゃうんだね。

そういう時は、それが個人の小さな話とリンクしていくことで、
話は面白くなってゆくのだ。
絵に個人的な意味を持たせるわけだ。

つまり、
大きな話と小さな話が、同時進行している、
というのが映画的な物語だといえる。

北斗の拳は世界を二分する兄弟げんかの話だ。
そんな感じにするといいと思う。



上手じゃない話は、大きな話が小さな話に対して大きすぎるとか、
小さな話がそもそもおもしろくないとか、
小さな話が大きい世界と結びついていないとか、
どこかいびつなんだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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