これがおそらく、映画的物語なんじゃないかと思っている。
大きい話とは、
世界の破滅とか、組織の崩壊とか、
街の危機とか、
主人公が所属する世界に関する出来事だ。
会社の中の話ならば、社長がいて、
役員がいて、部長や課長がいるだろう。
色んな部署同士がいがみあっているかもしれない。
まあ、とにかく、世界の大きさがある。
教室の中の話は、教室の中だけが世界だ。
映画というのは、この世界が激変するさまを描く。
最初はこうだったのに、
こういうのが動き、これも動き、
最初とは似ても似つかぬものになっているのが、
変化と呼ばれる。
宇宙人がせめてきて、地球が危機に陥るが、
宇宙人を退治して地球は平和に戻るとか、
転校生がやってきて、これまでの人間関係が全然変わってしまうとか。
世界がどう動くか、を語るのが、映画世界の「大きな話」だ。
一方、小さな話がある。
これは個人の話だ。
たとえば親子の確執であるとか、親友の話であるとか、兄弟の話であるとか、恋人の話であるとか。
この小さい話を、大きな話で表現するのが、
映画的ストーリーだと僕は考えている。
どういうことかというと、
宇宙をまたにかけた壮大な戦争が、
親子喧嘩であった、ようにする。
大きな話は、実は小さな話の代理であった、
ようにするとよい。
王位をめぐる兄弟の確執が、
世界を二分する戦争になる、ようなことだ。
ラスボスがその世界の支配者になるのは、
ある種の必然である。
それを小さな個人的関係に結び付けるので、
ラスボスは父とか親になりがちなのだ。
あるいは親友とかライバルとかね。
これは、大きな話と小さな話がうまく重なり合っている例だ。
小さな話だけだと、どうしてもスケールが小さくなる。
半径2メートルの話に終始してしまう。
小説なんかでは面白いかもしれないが、
絵で語る映画としては、スケール感が足りない。
芥川賞は映画にならないのだ。
小説の映画化によくある問題だけど、
それをうまく世界の大きな話と連動できれば、
絵にも描きやすくなる。
(たとえば僕が好きなのは「ギルバート・グレイプ」の、
太った母が死んだあと、家のソファに座らせて、
火をつけて家ごと燃やすシーンだ。
家の象徴であった母を、その空間ごと葬式する、
という美しい場面であった)
大きな話だけだと、感情移入がうまくいかなくなる。
世界の破滅や部活の消滅に、そのうち興味が持てなくなる。
おおざっぱすぎるのだと思う。
犯人が捕まらなくても構わん、とか、
地球がなくなってもいいや、とか、途中で飽きちゃうんだね。
そういう時は、それが個人の小さな話とリンクしていくことで、
話は面白くなってゆくのだ。
絵に個人的な意味を持たせるわけだ。
つまり、
大きな話と小さな話が、同時進行している、
というのが映画的な物語だといえる。
北斗の拳は世界を二分する兄弟げんかの話だ。
そんな感じにするといいと思う。
上手じゃない話は、大きな話が小さな話に対して大きすぎるとか、
小さな話がそもそもおもしろくないとか、
小さな話が大きい世界と結びついていないとか、
どこかいびつなんだと思う。
2025年10月13日
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