だいぶ違うものを比べているって?
物語のテーマとはテーゼであった。
それを全編かけて証明するのが物語でもある。
じゃあ、あることを証明する論文と似ているじゃん。
必ず証明が成功しなくてもよい。
うまく行かなかったことを報告する論文もある。
これはここは間違いだからこれ以上追及する必要はない、
という意味で意味がある。
物語の場合は、失敗するオチ(バッドエンド)もある。
しかし、この場合、失敗することの意味がテーマになるから、
ある種のテーゼを証明したことになってしまう。
このへんはまず違うね。
論文は、梗概(アブストラクト)を頭につける。
問題意識、目の付け所、本論文の骨子、結論、
結論が導き出す世間的な意味、
までが書けていれば完璧なアブストラクトだ。
脚本の場合はこれを付けないが、賞に出すものには、
たいていこういうものをつけるよね。
論文のアブストラクトは、証明の仕方はおいといて、
それが真実と確認されたことをざーっと知りたいときに役に立つ。
あとは興味があるものだけを集めて、詳細に検討する、
ということをやるからね。
ストーリーの梗概は、賞の場合、
「ちゃんとできているか」を見ることが多い。
「この人はボンクラかどうか」が大体梗概をみればわかるからだ。
ちゃんと書ける人は、梗概を魅力的に書ける。
その筆力をまず見ようということだ。
落ちまで書くのがルールだから、
全体的に出来ているかのチェックになるわけだね。
一方、内輪向けでなく、一般向けの「あらすじ」は、
落ちまで書かないことがほとんどだ。
それじゃあ見てもらえないからね。
むしろ、落ちを明かさないことで、「どうなるんだろう?」
とヒキが出来たら正解なので、
一般向けのあらすじは、
「最初の面白げなシチュエーション、または主たる面白げな葛藤」について、
書かれることが多い。
全体の構成はどうか。
論文は、問題の背景、実際に解決した理論、
結論を短く、それが世間に与える影響、
という順で書く。
問題をどのように解決したか、それは妥当かが、
論文の本体だ。
ストーリーも似ている。
問題があり、解決の過程があり、
結論がある。
この、三段論法というか、
序論/本論/結論という構成は、
人類が「理解」するための基本的な構成なのだと思う。
だから、大きな構成は同じともいえる。
ヒキは違う。
論文は、問題そのものがヒキである。
これを解決していない人類に対して、解決したぞ、
ということをいうわけだ。
物語も、問題そのものがヒキになることが大きい。
しかし、「その解法、社会的意義」はどうでもよくて、
「わくわくするかどうか」がポイントになる。
解決の方法はどうだろう。
論文の場合は科学的な手法や、論理によるものだ。
真理を追究する科学では、
それが正しいかどうかが問題だ。
間違っている論文は価値がない。
物語の場合は、論理だけではない。
多くは感情による展開が多い。
それは、娯楽だからである。
楽しい、悲しい、怒り、笑い、などの、
感情に乗っかって見た方が楽しいからだ。
七色の感情を刺激しながら、物語は進められる。
また、単に感情が変わるだけではただのきちがいなので、
それには「理由」が必要だ。
状況が変化したからこういう感情になった。
こういう行動をするのは、こういう感情だから、
という感情の因果関係である。
また、論文の展開は論理の展開だが、
物語の展開は、「行動」によってなされる。
行動をした結果、どうなったかが、
次の展開になる。
なぜそれをやったのかが、動機であり、
これも感情に裏打ちされている。
論文と物語では、想定される反論に対して、
反論を用意しているものがある。
論文の場合は、自説の証明をするわけだから、
想定される反論にはすべてこたえられる必要がある。
物語もそれに似ている。
おかしいじゃないか、ということに対して、
「こういうことなんだよ」と答えられれば、
反論は封じることが出来る。
ただ、論文の場合は厳密な論理性が必要だが、
物語の場合は論理性も必要だが、
相変わらず、感情的に納得いくか、
という問題が強い。
論文の駆動は論理だが、
物語の駆動は感情である。
そして、その感情に、感情移入していなければ、
物語は面白くない。
論文は面白い/面白くないは関係ない。
感情移入もしない。
似ているが違うものとして、
論文と物語を比較してみた。
テーゼの証明をどちらもするものだが、
その証明の仕方や工程は似たようなものだが、
使う道具が違うんだな。
論文は論理や科学的実証、検証。
物語は感情、行動、感情移入。
論文で泣きを入れて感情移入させるのは間違いだし、
物語で論理だけで進めていくのも間違いだ。
あと、論文は1万字くらいだけど、
脚本は4万8000字だな。
2025年12月03日
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