2025年10月15日

【薙刀式】達人の話

テルさんまでが呟いてくれている。
> ある程度明瞭に思考している時は、思考した内容を自動的に脳内でタイピングしちゃってるからな…… もはやどちらが先かも分からない。もしかしたら AI のように自然な打鍵の流れが文章を呼んでいるかもしれないとすら思う
> だから多分、自分の脳は、打ちにくい文章は思いつきにくいようになっていると思う

あー、完全に僕の手書きと同じ領域にいる感じなんだ。


思考が別にあって、
それを日本語で示すとしたら、
と手が勝手にタイピングする感じだ。
で、手の先行も全然あると。

僕はこれは手書きではできるのだが、
タイピングもそうなりたくて、
qwertyのブラインドタッチを始めたのだが、
難しすぎると思って、
自分のできる範囲でタイピングしようと、
配列を作り始めたのであった。


タイピングで人類にそれは無理やろと思ってたが、
テルさんぐらいにやり込めば、
人類には可能であるんだな。

ただ、そこまでやり込まないといけないのは、
やっぱ無理があるとは思う。


日本語はもともと筆文字で、
つなげて書くのが基本であった。
だからつなげて書きやすいように、
行書や草書に発達した。
つまり、一続きの流れとして書けるようになった。
英語の筆記体も同じ流れだと思う。

qwertyローマ字も、JISカナも、
そのようになっていない。
流れるような指使いはない。

正確に言うと、
その配列で流れの良い言葉と悪い言葉があり、
それは、日本語で流れの良い部分と悪い部分と、
かなり一致しない。
そのぎくしゃくさが、
僕のqwerty、JISカナへの批判点だ。

筆文字ならば時代による淘汰を経ることができた。
勝手に獣道が生まれて、
書き方は省略されてきたろう。
だがキーボードはすり減ったり形を変えたり、
大きさを変えたり、字の位置が変わったりしないので、
100年淘汰を避けてきてしまった。
そこが、自然さに到達しなかった理由だ。

真鍮だろうがプラだろうがPCBだろうが、
「規格」という工業が、自然淘汰を不可能にしたのだ。


たとえばチャンク化という例がある。
たのんさんの例を再び引くが、
自然な日本語では「今日は/雨が/降っていた」
と区切られるような意味が、
qwertyだと、
「kyo/uha/ameg/ahut/tei/ta」
と区切った方が滑らかに速くなる。
これがqwertyにおける続け字のような進化だ。

これが日本語とかなり異なることが、
僕の一番批判したいところだ。

自然な日本語が、qwertyによってゆがんでいる。


テルさんはどちらだろう?
鍛えまくった達人の指は、
「今日は/雨が/降っていた」と区切るのだろうか?
それともqwertyで打ちやすい区切りで打つのだろうか?

もしqwertyで打ちやすい語を選んでしまうのなら、
思考が自然言語から、
いくらか曲げられていないか?

> だから多分、自分の脳は、打ちにくい文章は思いつきにくいようになっていると思う

おそらくこの部分が、
後者であることを示唆している。

日本語で書きにくい言葉は、
実は汚い言葉だ。
鬱、罵詈雑言、夜露死苦、魑魅魍魎、苦渋など、
筆文字で美しく書くことは結構難しい言葉ばかりだと思う。
ガビガビ、ボコボコ、ぐにゅぐにゅなど、
発音しにくい(エネルギーを多く使う)言葉も多いと思う。

もちろん、死ねとかバカとか、
発音しやすく書きやすい汚い言葉もあるが、
それはかなり有限なので、
これを使うやつは頭が悪いことがすぐにバレるようになっている。
バカ発見器でもあるわけ。

なので、高度な汚い言葉ほど、
自然言語では書きにくく、発音しにくくなっている。

これと、qwertyで打ちにくい語が一致しない。
なので、
打ちにくい語が「発想から消える」というのは、
かなり日本語を失ってるのではないかと危惧する。

たとえば僕は「させられた」なんてのをqwertyですっと打てないので、
qwertyを使う状況では、
無意識にそこを避けると思う。
いやーあいつのせいで無理矢理作業させられたわー、
なんて簡単な話が、qwertyではできなくなるわけだ。

こうして思考が歪ませられている、
というのが僕のqwertyへの批判だ。



僕はタイピングという手段が、
このように自分の日本語を歪ませると恐怖したので、
なるべく歪まないような配列をつくった。

僕の配列や自作キーボードを作る理由は、
自分の言葉がたかがキーボードやIMEに曲げられないことである。

逆に、
自分が書けないことを道具のせいで書きやすくなってしまうことも、
僕は歪まされていると感じる。
だから、自分の100%は100%にしたいし、
自分の1%は1%に対応させたい。
そういう意味で、道具に消えてほしい。余計なことをしてほしくない。

ひずませたギターアンプを使って、
独特の音で演奏する人たちがいる。
それはそれで表現としておもしろい。
町田康や椎名林檎はその典型だ。
ここまでひずませなくても、
ちょいちょいワンポイントで使う人もいるだろう。

僕はそれでいうと、まず素直な音を出したいのだ。

その素直な日本語に対して、
qwertyは汚すぎるのだ。
「kyo/uha/ameg/ahut/tei/ta」ってなんだよ。
たのんさんに毒づくつもりは全くなく、
単にこの道具に適応した人だから彼のせいではないのだ。

ああ、今日は雨が降っていたなあという、
少しメロウな、しかし疲れていた日々が少し休めて、
心がほっとしている感じや、
透明な雨だから自分の心も透明になる感じや、
あれだけ暑かった夏が急に去って戸惑う感じを、
「kyo/uha/ameg/ahut/tei/ta」では、
書けない。
ふつうのひとはね。



おそらくテルさんは、
標準配列をやりすぎて、
脳の中までそうなってしまった人なのだろう。
それでいいならそれでもいいけど、
たまには筆を持って俳句や短歌を写経してみたら、
違う世界が見えてくるかもね、
と半分冗談半分本気のことを言ってみる。

 暑い夏のようなあの子を探す
 今日は細い雨が降っていた

なんて今適当に短歌を詠んでみたが、
筆で書くのとqwertyでタイプするのは明らかに気持ちが変わってしまうだろうね。


同じくツイートから拾うと、
> ハンターハンターのネテロではないけれど「後々役に立ったかもしれないが、自分がやったのは神に捧げる祈り、奉公の類であったのだ」と思いたいバイアスがある

あの膨大な訓練の日々が、
単に速く書ける程度の能力を得るにしては、
あまりにもコスパが悪かった、
と認めたくない心があるのではないかと思う。
何か別の神聖なことに自分を捧げたのだ、
という認知的不協和が起こっている気がする。

それほどに、
qwertyローマ字、JISカナで速くなることは、
異常能力を求められることだ。
だって日本に何人かしかいないでしょそんな人。
百人組手という極真空手の荒行を達成した人は、
まだ11人しかいないんだぜ。
ワールドレコード達成者くらいの荒行でしょ。

空手は精神の修行になったと思うけど、
qwertyローマ字やJISカナはどうかな。
そこに神はいたのか。
達成者しか分からないこともあると思う。


少なくとも僕はその山のふもとの入口で、
ここは僕の行くところではない、
と強く感じて迂回した。
山のてっぺんから見える世界を、
もっと書いて欲しい。
その祈りで見えたものは何かって。

得たものや失ったものを数えてはならない、
それは祈りとは言わない、みたいな世界かもしれない。

僕はかつて格ゲーに命をかけたことがあるので、
ゲーマーとしては、
競走の楽しさやライバルとの交流や、
自分の弱さに向き合うこと、
なんかはよくわかる。




余談。
> 脱線するけど「速さを競う && not コピー」という競技はありえるだろうか。陸上なら「特定地点へ自由に走って辿り着け」とかか?

笑点の楽太郎の役割かな。
「私がいまから○○といいます。
うまく答えて笑わせてください」で、
いち早く笑わせた人が優勝。
これだと短文すぎて笑いの能力比較になるから、
「A、B、Cの3つを使って短編小説4000字を書いてください」
の三題噺が、プロ相手ならできる。

ただ全員参加の競技としてはむずかしいかもね。
文章にとって必要なのは質であって速さではない、
というのがこの問題をややこしくしている。

1回映画を全員で見て、
その感想文1万字を誰が先に書き終えるか競走とか?
posted by おおおかとしひこ at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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