今やってるかどうか知らないが、
小学校のころ「友達100人できるかな」という歌があった。
小学校に入って、できるといいなあ、
などという希望をうたった歌だ。
これは可能性がまだある状態の話である。
これが卒業式間際になったとき、
友達100人できなかったら、
その可能性はもうないということになる。
物語序盤がなぜ希望に満ちていて、
終盤が悲壮なのはなぜか、
という理由がこれである。
序盤には可能性があるのだ。
1年生のほうが2年生よりも可能性がある。
オッサンより若者のほうが可能性がある。
それだけのことである。
ストーリー前半において、
あらゆることに可能性がある。
あの人はあの人を好きになるかもしれないし、
あのやり方で成功するかもしれないし、
失敗するかもしれない。
その、あらゆることの重ね合わせとして、
途中は存在する。
どっちつかずのほうが両天秤かけられて、
わくわくする。
それは三角関係のようなものだ。
どっちと付き合うか、決めていないほうが、
その可能性をしゃぶれるわけだ。
だから、序盤まで面白かったが、
それから面白くなくなった話というのは、
「おもしろい」の成分が、
可能性であったかもしれないということだ。
「どうなるんだろう?」というわくわく感は、
あらゆる可能性を想像して楽しんでいる。
漫画の連載の途中で「これはおもしろい」
という場合、その可能性含みでいっている。
あるいは、新人アイドルが出てきた場合、
その可能性でキラキラしていることがある。
27歳くらいになって、
不倫とかして、鳴かず飛ばずだったアイドルは、
もう可能性を持っていない。
「デビューしたての頃はよかったのになあ」
と言われるわけだ。
で。
物語の終盤で、
あらゆる可能性はもうなくなる。
友達100人できないし、
アイドルは武道館へ行けない。
そのときに、
序盤の可能性を示す部分を切ったらどうなる?
それで面白くなくなるなら、
あなたの物語は、
可能性というふわふわしていたものに頼っていた証拠だ。
可能性を「おもしろい」と勘違いしていた、
という可能性があるね。
物語を閉じようとしているときは、
あらゆる可能性がもうなく、
結論が出ることに至る方向である。
新しく何かが生まれる可能性はなく、
閉じていくことだけに集中するわけだ。
「あの、あれはもう実現しないのだろうか」
「あれは伏線なんじゃないのか」
という希望はなくなり、
すべての可能性は0になるのが、
終わるということだ。
僕は、余計な可能性を示すシーンは、
全部切ったほうがいいと思っている。
「この子、この人とつきあうのだろうか」とか、
「この人秘密をもってそう」とか、
そういうシーンは切ってよい。
それで面白くなくなるなら、
看板だけ見せて、中身がないのと同じじゃないか。
あなたは単なる看板職人ということになる。
(CMディレクター出身の監督の映画がつまらなくなりがちなのは、
この思わせぶりの看板が上手いだけで、
本編の中身がないからだ)
だから、思わせぶりとか、
におわせとか、
可能性とか、
希望とかは、
いったんカットしてよい。
そうしたら、序盤はだいぶやせていくと思う。
終盤が見えてきて、
ようやく序盤が固まる、とはこういうことである。
最終盤に必要なものだけを序盤に前振るのだとしたら、
序盤はとくにいらないものだらけになる。
スカスカになった序盤に、
別の何かを充実させてもいいし、
可能性の場面を復活させて、
実態より大きい期待をさせてもよい。
どちらでも良いが、
後者は看板詐欺になるだろうね。
尻つぼみになる物語は、
すべてこういう構造だと僕は思っている。
「スリービルボード」のトップカットから序盤は、
めちゃくちゃ面白かった。
にもかかわらず、後半からラストは、
全然おもしろくなかった。
あらゆる展開の可能性がなくなり、
しょぼく終わってしまったからだと思う。
友達100人できるかな。
できないよ。
へんに希望を持たせるんじゃねえよ。
じっくり話せる何人かの親友ができるかな、
でいいじゃんかね。
物語を終わらせることは、
あらゆる可能性を閉じることである。
つまり、あらゆる可能性から、
一番いいバージョンの結論が出るのが、
物語だ。
2025年12月05日
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