エチュードは役者のアドリブ的な手法。
あるシチュエーションに対して、
なるべく自然で初めてそれに出会ったようにやる。
(反対はダンドリ的な)
これは映画にならない、という話をまず初めにする。
エチュードがなぜ生まれたかというと、
台本がすでに決まって、カメラや照明の段取りもすべて決まっている、
いわば敷かれたレールがある状態は、
段取りっぽくなってしまうということからだ。
テイク2、テイク3……を重ねていくと、
「決められたことを決められたようにこなす」
を役者がするようになるため、
それがとても段取り臭くなることがある。
それを避けるために、
まるで初めてそのセリフを言うように、
まるで初めてそれを思いついたかのように、
リアルに演技する方法論だ。
で、問題は、
それはリアルにはなるんだけど、
物語にはならないということだ。
なぜならば、リアルという現実では、
物語的な、強度の強い、切迫性のある、納得のいく展開など、
ほとんどないからだ。
リアルはリアルなんだけど、
混乱してて整理されず、緩慢で理解に時間がかかる、
無駄のある、完全に説明がつくものでない、
ものになるわけ。
つまり、リアルの純度は高いが、
物語としてはノイズだらけになるということ。
つまり、現実のノイズをうまくフィルターで濾したものが、
シナリオという整理であるといえる。
エチュードは、
それが下手なときに、リアルのノイズを入れて、
本物っぽく見せようという手法なわけだね。
つまり、よくできた脚本というのは、
段取りに見えてはならない。
初めてそれを目にしたときの反応や、
初めてそれを人生で言ったかのようなセリフになってなければならない、
ということだ。
これとドキュメントとは、また別だ、
という話をする。
ドキュメントは、リアルに行われていることを、
カメラを回しっぱなしにしておいて、
それをあとでつないで一定の時間に収めるものである。
そしてドキュメントには武器がある。
ナレーションである。
これによって、今何が起こってるかを解説する。
ほんとに起こってることだから、
説得力がある。(嘘でなければ)
仮に「彼女は怒っていた」とナレーションをつけて、
彼女の無表情の絵を使ってもいい。
ほんとなんだけど分かりにくかったので、
ナレーションをつけたわけ。
つまり、
写っているものは現実にあったリアルなことだが、
編集+ナレーションという行為によって、
いくらでも目的のものにつぎはぎが可能ということになる。
マスコミによる切り取りは、
このドキュメントの手法を悪用したものだ。
なんなら、
ドキュメンタリー作家は、
結論が決まっていて、展開もある程度予測できるものについて、
ひたすらカメラを回しっぱなしにしておき、
ちょうどいい素材が撮れるまで待っている可能性がある。
現実では起きたことに違いないが、
本質的なことではないことでも、
うまくつなげば嘘の一部を形成することが出来る、
ということだ。
その、嘘のパーツを収録するためだけに、
カメラを回すことはよくある。
たとえば結論ありきで、
「ABは仲が悪い」というドキュメントを撮るとしよう。
実際は二人が仲が良いのに、
ちょっとした齟齬や言い合いがあった場面があるまで待ち、
仲良かったところを全カットして、
そこだけ残せば、二人は仲が悪い、
ということを「つくる」ことができる。
一人が月見大福を買ったとして、
「AはBに上げずに2個とも食べてしまったのである」
というナレーションを入れるだけで、
二人は仲が悪いことを作れる。
(実際には二人で分け合っていたとしても、
それを使わなければ、なかったことと同じだ)
結論ありきで、マスコミは取材する、
といわれるのはそのためだ。
ある結論があって、
それに沿った場面が撮影できるまで、
待っているだけなのだ。
なんなら嘘で月見大福だけを撮影することだってある。
わざと言いあいをさせるために、
AにBがこういっていた、と吹き込むことだってあるだろう。
「えー、それは勘違いだよ」と仲直りしたとしても、
そこを使わずに、「は?」ってところだけ使えばいいわけ。
こんな風に、
豊富な素材から、
ドキュメントは選択して使うことができるわけだ。
最初から結論が成立するような、
場面を撮影しにいくのだ。
リアルであったことを、
分かりやすくつないでいるのが、
ドキュメントではない。
作為が最初からあり、
それを構成するパーツを、
現実から抜き取っているだけだ。
エチュードは、
だから結論に向かうことはない。
強力な結論に向かう矢は、
現実ではめったに表れないからだ。
ドキュメントならば、
矢はすでにある。
そう見える素材だけ撮ればよい。
このドキュメントのやり方が、
一時期流行ったことがある。
行定勲や是枝裕和とかかな。
これをエチュードの組み合わせと考えた、
石川寛「tokyo.sora」などは失敗した。
庵野の「シン仮面ライダー」も、
ドキュメントではなくエチュードさせようとして、
大きく失敗している。
ラストバトルはマサ斎藤と猪木の巌流島のような、
グダグダになってしまった。
どちらにせよ、役者には評判の悪い方法論だ。
お前らが勝手にせよ、
俺が後で切り取るから、ということだからね。
お前は狙いがないのかよ、ということだから。
そもそもこうした手法が流行るのは、
段取りにしか見えない脚本があるからだ。
もっとリアルに書ければいいだけの話である。
2025年12月06日
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