世界はカオスである。
わざわざそれを理解したくて、人は物語をみない。
2時間かけて映画を見て、
「世界はカオスで救いようがないのだ」と結論付けられても、
金返せってなるだろう。それは知っているからだ。
映画を見るとき、
「誰か他人の整理したものを見たい」という欲望はあると思う。
自宅の散らかった布団で寝るくらいならば、
ホテルの奇麗なベッドで寝たい、
という願望は人にはある。
誰かほかの人がきっちり整理したものは、気持ちいいのだ。
で、自分でいろいろ考えている人ほど、
「ほかの人はこれをどう整理したのだろう?」
は、とても気になる。
自分で解けない問題があり、
それを他人が解いたのだというのなら、
それはどのような解法で、答えなのか、
ということだ。
中学生のころ、「上弦の月を喰べる獅子」という夢枕獏の小説を読んだっけなあ。
世界の謎を解いてくれるかのような前半に対して、
なんか適当な答えしかなかった気がして、拍子抜けだったことを覚えている。
そうじゃなくて、鮮やかに解いてほしい、
こういうものなんだ、
とショックを受けるほどの、
世界の鮮やかな答えを知りたいと、
人は思っている。
その切り口は独特で、常識を破り、
しかし誰もたどり着いてなくて、
しかも真実であるような、
そういうものがみんなが欲しいものだ。
そういう整理がされていれば、
みんな見たくなるだろう。
わざわざ、世界はカオスでつまらないものでした、
生きる価値などなかったのです、
という結論を見たい人はいない。
今日も誰かが整理した何かを、
見てみたいという贅沢が、
物語を見る動機のひとつだろう。
だが明示的に意識している人はまれだと思う。
言われれば、潜在意識にそれがある、
という程度だと思う。
しかし、整理がされないままだったら、
なんかモニョるのはたしかだろう。
それが「何が言いたかったの?」になるんだと思うよ。
2025年12月07日
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