2025年12月07日

世界を理解したいとき

世界はカオスである。
わざわざそれを理解したくて、人は物語をみない。

2時間かけて映画を見て、
「世界はカオスで救いようがないのだ」と結論付けられても、
金返せってなるだろう。それは知っているからだ。


映画を見るとき、
「誰か他人の整理したものを見たい」という欲望はあると思う。

自宅の散らかった布団で寝るくらいならば、
ホテルの奇麗なベッドで寝たい、
という願望は人にはある。
誰かほかの人がきっちり整理したものは、気持ちいいのだ。

で、自分でいろいろ考えている人ほど、
「ほかの人はこれをどう整理したのだろう?」
は、とても気になる。
自分で解けない問題があり、
それを他人が解いたのだというのなら、
それはどのような解法で、答えなのか、
ということだ。

中学生のころ、「上弦の月を喰べる獅子」という夢枕獏の小説を読んだっけなあ。
世界の謎を解いてくれるかのような前半に対して、
なんか適当な答えしかなかった気がして、拍子抜けだったことを覚えている。

そうじゃなくて、鮮やかに解いてほしい、
こういうものなんだ、
とショックを受けるほどの、
世界の鮮やかな答えを知りたいと、
人は思っている。


その切り口は独特で、常識を破り、
しかし誰もたどり着いてなくて、
しかも真実であるような、
そういうものがみんなが欲しいものだ。
そういう整理がされていれば、
みんな見たくなるだろう。

わざわざ、世界はカオスでつまらないものでした、
生きる価値などなかったのです、
という結論を見たい人はいない。

今日も誰かが整理した何かを、
見てみたいという贅沢が、
物語を見る動機のひとつだろう。


だが明示的に意識している人はまれだと思う。
言われれば、潜在意識にそれがある、
という程度だと思う。

しかし、整理がされないままだったら、
なんかモニョるのはたしかだろう。
それが「何が言いたかったの?」になるんだと思うよ。
posted by おおおかとしひこ at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック