内圧、つまり溢れ出る程の「書きたいもの」がないなら、
どんなに机に向かったって無駄だ。
まあ、プロの人生の中では、
書くことがなくても無理矢理にひりだして締め切りに間に合わせるとか、
やる気がないけどやりだしたらやる気が出てくる、
みたいなことはあるので、
机の前に座ってペンを取ること自体は、
悪いことではない。
だがしかし、
それではほとばしるような情熱を叩きつけることは難しいと思う。
原稿が白熱し、光り輝き、
あっと驚くものになるには、
内圧が高まった状態でないと無理だと思う。
つまり、
この場面をどうしても書きたい、
このセリフをどうしても書きたい、
この人物をどうしても書きたい、
このエピソードをどうしても書きたい、
この表情に至るまでをどうしても書きたい、
などだ。
あるいは、
少し先にそういう場面が控えているから、
早くそこまで辿り着きたいのでその前を潰したいとき、
などもそうだろう。
ラストシーンが死ぬほど書きたいときは、
どうにかして最後まで書き切りたいだろう。
そこに至るまでの過程を、
驚くべき、楽しむべき、感情が振り回されるべきものに、
仕込んでいればいるほど、
なんとかしてものにしたいだろう。
これはおもしろい。
そう確信しているから、
作者は書くのである。
その確信はときに間違いの時がある。
それでも、
狂気のように信じ込んでいる、
その圧倒する熱こそが、
人を巻き込むものになるのだ。
そうした内圧がなくて書くと、
全然つまらないものになる。
淡々とした、おしごと原稿になるんじゃないか。
私はこの仕事が好きで好きでしょうがない、
というエネルギーのほとばしりのないものは、
死んだ原稿なんじゃないか。
内圧を高めよう。
メモを大量に取り、
キャラクターが動き始め、
こっちの制止を振り切って走り出しかねないくらいまで、
頭の中で世界を想像しよう。
あー、書ける。
そう思う時とは、
内圧が高まり、
すべてのプロットがつながり、
最後まで語る情熱の量が一定を越えた時だ。
それまで待ってもいい。
煮込んだり整理し直してもいい。
そろそろ書くかな、というときでも、
自分をじらして2週間おあずけしてもいい。
そうしたら、
腹をすかせた狂犬みたいに、
狂ったように書き始めるだろう。
その熱に、みんな巻き込まれるのだ。
もし途中で止まったら?
止まり、書けなくなることはよくある。
それを沢山経験して、
最後まで書けるだけのエネルギーを蓄えてるかを、
いつもチェックするのだ。
脚本2時間120ページを書くことは、
小説250ページ(文庫本一冊相当)を書くことよりたぶん難しい。
小説は章を分けられるが、
映画は章をわけられないからだ。
小説でいうところの一章構成で、
映画ははじまりからオチまで駆け抜けなければならない。
三幕構成とかいってるけど、
全部連続してるので区切りや休憩はない。
小説が東海道五十三次だとしたら、
映画は2時間フルマラソンだ。
まるでフルマラソンで一気に走ったかのように、
1か月から数ヶ月かけて書くのである。
まるで明石家さんまが2時間しゃべりっぱなしの、
独演会をひらくように書くのである。
その、内圧を高めるのである。
2025年12月16日
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