2025年11月08日

無宗教と主語がない話は似ている

日本人は無宗教だとよくいう。
しかし実際には神道の世界観で生きている。
ばちが当たるとか、おてんとさまが見てるとか、
鳥居のマークに立ちションしづらいとか、
身を清めるとかは、
神道の価値観であり、
みんながそれに従っているのは宗教的文化だ。

ところが神道は宗教ではない。
それは単に、「西洋における宗教の定義が狭いから」
という話に過ぎないと僕は思う。


宗教の定義って、
聖典という、従うべき規範の明文化の存在なんですって。
つまり、ロゴスにより世界を定義した、
西洋の定義よね。
十戒とかコーランとかだ。

神道には聖典がない。
我々を縛る明文化されたなにかはない。
でもなんとなくみんな神道の世界観にしたがって、
「いただきます」を言い、
道場や試合の場に入る時は自然と礼をし、
トイレには神様がいるし、
使い込んだ道具には魂がこもる。
誰かに親切にしたら、それがどこかに回っていって、
全体が幸福になるだろうとなんとなく思っている。

これは西洋でいう宗教ではない。
僕は、単に西洋の宗教観がせまく、
日本の宗教を定義するだけの包容力がないと考える。


これと、主語の問題が似てるなということ。

「象は鼻が長い」の主語はなにか?
という文法の論争があり、
これは100年以上未解決らしい。

だがこれはゆる言語ラジオによれば、
橋本文法という西洋の文法を日本語に当てはめた文法がベースなので、
「西洋における主語」のような主語は、
この文からは定義できない。
日本語には日本語を解釈する文法があるべきで、
それを三上文法が説明するそうだが、
学会では無視されてるんだってさ。

つまり、100年以上、文法学者たちは、
「西洋の主語は日本語にはない」ことについて、
まだ論争し続けていることになる。

これは、日本に宗教がない、ことと似てるなーと思った。



三上文法によれば、
「象は」と「は」で始める時、
これから象の話をしますよ、
と話の枠組みを決める役割がある。
英語ではtopic wordと説明されてるらしい。
だから「その枠内では」、鼻が主語になるわけだ。

これは日本の神道的世界観と同じよね。
世界があり、神がそこらへんにあまねくいて、
今この神様の枠内の話になりますね、
というのをほぼ省略して話をしている。

よその土地にいけばよその神様がいるし、
とはいえうちの神様とつながってるはずだ、
という世界観だと思う。
だからうちの神様とよその神様は矛盾するので、
むこうを絶滅するという発想はないだろう。

なんとなく日本人は、
「この枠」「場」という世界の認識でいて、
西洋的な「俺が」という世界の認識にいないと思う。

西洋人は、俺と神が契約関係を結ぶんですって。
日本人は契約しないよね。
この世界はすでに世界だったから、
その枠に、この場に、
わたしたちがいるだけみたいになっている。

「この枠、場ではこう」と考えるのは、
空気を読み、他人に合わせる習慣とも一致する。

逆に西洋的な主語とか自我ってなんだっけ?
って思ってしまう。
西洋的な主語や自我は、空気を読まずに、
今この枠の世界観なんだから、
と枠組みを考えないんだろう、たぶん。



西洋の物語の構造は、
だから自我が世界を開拓する話である。
開拓するときに反対者が出てきて、
それを征服ないし味方にする話だ。

日本の物語は、どうもその型に相性が悪い。
「その枠内で、勝つ」くらいが関の山な気がする。
だから日本の物語は、
「どの枠内の話ですか?」を、
綿密につくらないと説得力がないんじゃなかろうか?

これはコメディ、これはシリアス、
これは女性向け、これは家族向け、
なんて感じに、「枠」を設けて世界観をセグメント化するのは、
「象は」をやってることに近そうだな。

日本人が行動が苦手なのも、
枠が行動をすぐ縛るからなのではなかろうか。
枠的世界観、場的世界観とでもなづけてみるか。
posted by おおおかとしひこ at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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